美しいものを見るためには目が美しくなければならない
「美しいものを見るためには目が美しくなければならない。……青い目がなくてどうして本当の青い空が見えようか」
これは、フランスの哲学者であるガストンバシュラールの残した言葉であります。
例えば、月を見たときに、これを「きれいだ」と思うのか、何も思わないのか、それとも「月は嫌いだ」と思うのか。
花を見て「美しい」と思うのか、「汚い」と思うのか。
同じモノを見ていても、受け取り方は人それぞれ違います。
世界がどのように見えるかは、人によってさまざまです。
世界がどう見えるかは、「世界をどう見るか」とひとつになっています。
美しく見えるということは、自分が「美しい」と思って見ているということ。
反対に、世界が汚れて見えているということは、自分が「汚れている」と思って見ているということなのであります。
私たちは、命終わった後には極楽浄土に生まれるといわれています。
極楽浄土には、阿弥陀仏をはじめたくさんの仏さま、美しい声の鳥、宝石で埋め尽くされた池、色鮮やかな建物など、美しく清らかな世界が広がっているとされています。
実はこの世界観は、お釈迦様が見たこの世の世界を表現しているともいわれています。
つまり、苦しみに満ちあふれたこの娑婆の世界も、仏の智慧を身につけることができれば、極楽浄土のようにすばらしい世界へと変わるということです。
変わるというのは、周りの環境や自分のおかれた状況が変わるというわけではありません。
変わるのは自分の心です。
心が変われば、世の中の見え方が変わるということです。
「子どもの頃に苦手だった野菜が、大人になったらおいしいと感じる」
「苦手だと思っていた人と、意気投合して仲良くなる」
「イヤだと思っていた仕事に、やりがいを感じる」
などなど、これらはすべて心の変化によって起っていることです。
「ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも汚れた心で話したり行ったりするならば、苦しみはその人につき従う。」
「ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも清らかな心で話したり行ったりするならば、福楽はその人につき従う。」
お釈迦様は、そのように残されています。
娑婆の世界の苦しみも、清らかな極楽浄土の喜びも、すべては自分の心が作り出しているものです。
清らかな心で世界を見れば、そこにはおのずと清らかな世界が広がっていくのです。
この世界をどのように見るか、それによって生き方も変わってくるのであります。