無一物となった者は、苦悩に追われることがない
こんなお話があります。
ある田舎に住んでいるお金持ちの男が、江戸見物へと旅に出ました。
付き人に荷物を持たせて、江戸へと向かいます。
江戸までの道中は、宿に泊まって温泉に入ったり、料理屋に寄ってうまいものを食べたり、舟に乗って川を下ったりと、のんびりとした旅でした。
あちらこちらと立ち寄りながら、何日もかけて足を運びます。
ようやく江戸に着きました。これまでと違い、大変な賑わいを見せています。
道の両脇には店が並び、田舎には無いようなモノがたくさん売られています。
道にはたくさんの人が行き来して、せわしなく動き回っているようでした。
金持ちの男は、付き人に言いました。
「江戸は大変物騒な所だと聞いている。特にスリには気をつけなければいけない。荷物をなくさないように、しっかりと持っておくように」
「はい、わかりました」
それから二人は、出店のあちこちを見て回りました。
ところが、男は荷物が盗られないか心配で仕方がありません。
「おい、荷物はちゃんと持っているだろうな」
「はい、持っております」
男はちょっと歩くとまた付き人に聞きます。
「荷物はちゃんと持っているだろうな」
「はい、持っております」
ちょっと歩くとまた聞きます。
「荷物はちゃんと持っているだろうな」
「はい、持っております」
これを何度か繰り返して、
「おい、荷物はちゃんと持っているだろうな」
「すみません。今の今、盗られてしまいました」
男は驚いて言いました。
「何?盗られただと?」
そして、
「ああよかった、これで荷物を気にせずに、ゆっくり江戸見物ができる」
私たちはモノを持っていることが幸せだと思い、自分にないものをどうにかして手に入れようとしています。
そして、手に入れたモノは絶対に手放したくないと執着をします。
手放したくないという執着によって、苦しみが生まれます。
お金でも、家でも、家族でも、本来「自分のモノ」ではないのに「自分のモノ」と勘違いして、「自分のモノ」が手から離れていくことを恐れ、どうにか手放さないように躍起になって、今自分が本当にすべきことにも目が向いていないのです。
お釈迦様は
「怒りを捨てよ。慢心を除き去れ。いかなる束縛をも超越せよ。名称と形態とにこだわらず、無一物となった者は、苦悩に追われることがない」
と言葉を残しています。
怒りや欲望などの煩悩は、いくら満たしても次から次へと沸いて出てきます。
ひとつ手に入れても、また次、また次といって、際限がないのが人間の姿です。
それではいつまで経っても苦しみから解放されることはありません。
これらの煩悩を手放すことによって、真の心の安楽がおとずれるのです。