「玩具のない子が」金子みすゞ
「玩具のない子が」
玩具のない子が
さみしけりや、
玩具をやつたらなほるでせう。母さんのない子が
かなしけりや、
母さんをあげたら嬉しいでせう。母さんはやさしく
髪を撫で、
玩具は箱から
こぼれてて、それで私の
金子みすゞ
さみしいは、
何を貰うたらなほるでせう。
金子みすゞさんの詩のひとつで『玩具のない子が』という詩です。
現代を生きる私たち人間の心の様子をわかりやすく表現しているように思います。
玩具のない子が玩具をもらうと、さびしさはなくなります。
母親がいない子は、お母さんがいるとうれしくなります。
しかし、「私」はお母さんもいるし、玩具も箱からこぼれるほど持っているにもかかわらず、寂しさを感じているのです。
そんな「私」は、何があればその虚しい心が救われるのでしょうか。
ここでいう「母さん」や「玩具」は、たとえとして表現されているものです。
「母さん」は家族や友人なども含め、まわりの人たちのこと。
「玩具」は衣食住や遊びなどのモノのことです。
モノでも人でもない、心を満たしてくれる何かを求める金子みすゞさんの切実な思いが伝わってくるように思います。
現代を生きる私たちは、簡単に多くの人とつながりを持つことができるようになりました。
SNSを通して簡単に人と出会うことができ、交流することができます。
また、モノにあふれ、簡単に何でも誰でも買うことができるようになりました。
お腹が減ったらコンビニで簡単においしいごはんを買うことができます。
欲しいモノがあれば、わざわざ現地に足を運ばなくてもインターネットで購入し、自宅まで届けてくれます。
それなのに、生きずらさを感じながら生活をしています。
そんな私たちに、一体何が足りないのでしょうか。
お釈迦様は一国の王子として生まれ、幼少のころはモノや人にあふれて何不自由ない生活を送っていました。
しかし、そんな生活に対して生きずらさを感じ、出家をしたのです。
仏教でいうところの幸福とは、欲望の充足をいうのではありません。
「 何ものかを信ずることなく、作られざるもの(=ニルヴァーナ)を知り、生死の絆を絶ち、(善悪をなすに)よしなく、欲求を捨て去った人、──かれこそ実に最上の人である。」
あれが欲しいこれが欲しいという欲望を捨てて、モノに対する執着をなくすことが、真の幸福であるとするのです。
モノにあふれ、豊かになりすぎたが現代だからこそ、もう一度本当に何が必要で何が大切なものなのか、考えていくことが大切なのではないでしょうか。