「キサーゴータミー」子どもを亡くした母親のはなし

「キサーゴータミー」子どもを亡くした母親のはなし

今からおよそ2600年前、お釈迦様が在世の頃のお話です。

サーヴァッティという町にある貧しい家に、キサーゴータミーという女性がおりました。

彼女はある縁で富豪の息子と結婚し、まもなく男の子が生まれました。

ところが、よちよち歩きをするころに、死んでしまったのであります。

「死」というものを知らなかった彼女は、子どものために薬を求めて、狂ったように歩き回りました。

これを見ていたある人が憐れに思って「お釈迦様ならその薬をご存じかもしれない」と伝えました。

キサーゴータミーはすぐさまお釈迦様のもとを訪れ、薬が欲しいと願いました。

するとお釈迦様は

「それでは、まだ子どもを亡くしたことのない家から、一握りの芥子の種をもらってきなさい」

と伝えます。

彼女は「わかりました」というと、それから各家を一軒ずつ回りました。

しかし、どこにもそのような家は見当たりませんでした。

どの村も、生きている人よりも死んだ人のほうが多かったのです。

そこでお釈迦様は言われました。

「キサーゴータミーよ、そなたには一瞬でも願いが叶えられたのでしょうか」

キサーゴータミーは答えました。

「いいえ、どの村でも、生きている人より死んだ人のほうが多かったのです」

そこでお釈迦様は言いました。

「そなたは、自分の子どもだけが亡くなったと思っていますが、死は生けるものの定めです。洪水が突然町や人を襲い、すべてを奪っていくように、死は生けるものの望が叶わぬうちにすべてを奪い去り、苦しみへと引き込んでいくのです」

そしてお釈迦様は、このように教えを説かれました。

「子どもや家畜のことに気を奪われて心がそれに執著している人を、死はさらって行く。──眠っている村を大洪水が押し流すように。」

これを聞いてキサーゴータミーは悟りの境地に至り、出家をしたというのでありました。

私たちはいつか必ず死ななければいけない、ということは、言うまでもなくだれもが知っていることであります。

ではなぜ、誰かが死んだときに涙を流して泣くのでしょうか。

生まれたばかりの幼い子どもであっても、80歳の老人であっても、明日の命があるかどうかわからないというのは、みんな知っていることです。

なぜ悲しむのでしょうか。

それは、私たちに物事を正しく見る力「智慧」がないからであります。

わかったつもりになっているだけで、まだまだ元気で明日も生きていると思っているから、突然のわかれに涙を流すのであります。

健康ばかり見ていて病気を見ない、生のみを見ていて死を見ない、楽ばかり見ていて苦を見ない。

このように自分の都合で偏った見方しかできない私たちのおろかさを、この物語は語っているのであります。

健康も病も見て、生も死も見て、楽も苦も見る。

そのように、偏ることのない心でものごとを見ることができれば、キサーゴータミーのように本当の安楽に至ることができるのであります。

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