「われ必ずしも聖にあらず。かれかならずしも愚にあらず。ともにこれ凡夫のみ。」

「われ必ずしも聖にあらず。かれかならずしも愚にあらず。ともにこれ凡夫のみ。」

「われ必ずしも聖にあらず。かれかならずしも愚にあらず。ともにこれ凡夫のみ。」

先日、友人とケンカをしてしまいました。

お互い、相手の意見に納得ができず、自分の意見も曲げることができず、ついつい言い合いになってしまったのであります。

昔はケンカなどしたことがありませんでした。

それは、時が経つにつれて言い争いになることが増えてきたように思います。

思えば、諸先輩方もそのように見えるのです。

昔は中がよかったはずの先輩二人が、今では仲違いをして口も聞かないような状況にあります。

別の人とそのことについて話をしていると、「権力が絡むと争いになるのは当然のこと」だというのであります。

若い頃は地位も名誉も、権力も何もないことがほとんどです。

新人として社会に放り込まれ、その組織の一番下っ端でとにかく自分のできることを一生懸命にやることで精一杯です。

思うように行かないときも、このときは同じ立場で切磋琢磨している仲間が、苦難を乗り越えるための支えとなってくれているのです。

ところが年が経つにつれて、お互いそれぞれ役職を持つようになります。

後輩ができて、立場がかわり、自分の発言にも力が付くようになってきます。

すると、自分の意見を通したい、自分の思うように物事を進めていきたいと考えるようになってきます。

こうなると、考えの違いから争いになるのは至極当然のことなのであります。

戦争などはその最たるものではないでしょうか。

我々いち市民は、争い無く平和に過ごして行きたいと考えています。

ところが国のリーダーは、自分の国の利益を考えなくてはいけません。

争いのない世界を理想にかかげつつも、他国に対抗していかなければいけないので、我を押し通すような形で関わっていかざるをえません。

そうしてお互いの意見が相容れなくなると、そこに戦争が起こってしまうのであります。

みんな仲良くしたら良いのにと思っていても、立場が変わればそうも言っていられない事情が山ほどあるということなのでありましょう。

かの聖徳太子は、日本初の憲法として604年に十七条憲法を制定しました。

「篤く三宝を敬え。三宝とは、仏、法、僧なり」という文言は有名でありますが、ここからわかるように、仏教の思想を中心に国を治めようと考えていたといわれています。

改めてこの憲法を見てみると、現代を生きる我々にとってもとても大切な事が書かれているように思います。

一に曰く、和を以て貴しと為し、忤ふること無きを宗とせよ。人皆党有り、また達れる者は少なし。或いは君父に順ず、また隣里に違う。然れども、上和ぎ、下睦びて、事を論うに諧うときは、すなわち事理おのずから通ず。何事か成らざらん。

十七条の憲法

十七条憲法の一番目には、「和を以て貴し」というように、争いをしないことの貴さをはじめにかかげています。

人にはそれぞれ意見があるので、だから上の人の支持にもしたがわず、近隣の人とも争うようになる。しかし、自分から人々と仲睦まじい関係を保つならば、自然と道理にかなってどんなことでも成し遂げることができるだろう。というのであります。

また、

十に曰く、忿を絶ち、瞋を棄て、人の違うことを怒らざれ。人皆心あり。心おのおのの執れることあり。かれ是とすれば、われ非とす。われ是とすれば、かれ非とす。われ必ずしも聖にあらず。かれかならずしも愚にあらず。ともにこれ凡夫のみ。是非の理、たれかよく定むべけんや。あいともに賢愚なること、鐶の端なきごとし。ここをもって、かの人は瞋るといえども、かえってわが失を恐れよ。われひとり得たりといえども、衆に従いて同じく挙え。

十七条憲法

これは、怒らないようにしましょうということであります。

瞋をすてなさい、人に対しても怒ってはいけません。人には皆心があって、自分の意見を持っているもので、それに対してどちらが正しいとか間違っているとか言っているのです。

たとえ他人が怒ることがあっても、自分に過失がなかったかどうかを反省しなさい。また自分の考えが正しいと思っていても、周りの人々の意見を尊重して同じように行動しなさい。

というのであります。

近年、子どもの頃から「自分の意見を持つ」ことを教えられます。

AかBか、賛成か反対か、自分の意見をはっきりとさせて、論理的に議論していくことが求められています。

これはとても大事なことだと思います。

一方で、意見を持つということは、自分の意見が正しいということを証明するということでもあります。

本来ならばAとBの意見から、C案を見いだして丸く収めるべきところを、自分の正当性を主張するばかりにとどまってしまっているような気がしてならないのであります。

これでは、争いが激化するに決まっているのではないでしょうか。

先の十条のなかでは「われ必ずしも聖にあらず。かれかならずしも愚にあらず。ともにこれ凡夫のみ」とあります。

私は必ずしも聖者ではなく、相手はかならずしも愚者ではない。自分も相手もお互い凡夫であるというのであります。

成長し、学べば学ぶほど、自分の意見に自身を持つようになってきます。

そんな人どうしが対立すると、争いになって当然であります。

反対に初心にかえって、自分は間違っているかもしてないという謙虚な心をもっていると、相手の意見にも耳を傾ける余裕が生まれ、瞋も怒らず、腹を立てることも無く、争いになることもなくなってくるのではないでしょうか。

私たちが幸せに生きていくためには、自分自身が凡夫であることの自覚をするところから始まります。

立場が変わっても、権力を持つ地位についたとしても、常に自分自身を省みて、凡夫である自覚の上で行動していきたいものであります。

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