生きづらさの原因とは
社会は日を追うごとにめまぐるしく変化していってます。
とくにインターネットやSNSの発達によって、その変化のスピードについていくのがやっとです。
そんな中で生きて行くためには、効率をいかにあげていくかが問われています。
いかに最小限の労力で、最大限の結果を残すことができるか。
成果をあげることができたときには、その喜びは大変おおきなものでありましょう。
しかし反対に、失敗をしたりついて行けないときには、簡単に排除されてしまう社会でもあります。
言い換えれば、ひとつのミスも許されない社会であるように見えるのであります。
私はビジネスの話ではなく、人間の行いとしての話をしています。
何が言いたいかというと、たったひとつの何気ない言動で、今まで「すみません」で済んでいたものが済まなくなってきているというであります。
少し前、子どもを乗せた自転車に乗っている女性が、車と衝突しそうになり、怒っている動画がテレビで流れていました。
自転車と車なので、一見すると車に非があるように思います。
ところが、じつは自転車のほうが道路を逆走してきていたのです。
逆走してきて車とぶつかりそうになっておきながら、さらに執拗に声を荒立てて叫んで怒っているのであります。
それも子どもを連れたお母さんが、です。
この様子は、車のドライブレコーダーに記録されていた映像です。
映像がSNSにあげられ、それが全国へと広まり、テレビでも取り上げられたという事だそうです。
さらに映像から、この女性の名前と住所まで特定されているということであります。
これがいいとか悪いとかいうのではなく、私は大変恐ろしいことだと思いました。
昔はこうした出来事も、当事者間の問題で済んでいたのです。
ところが今では簡単に映像に残すことができます。
だれでも簡単にネットに投稿することができます。
地域の小さな出来事が、簡単に全国に広まってしまうのであります。
そして、「あいつの行動は悪い」「あいつはなんて非常識なやつだ」と、全国の見ず知らずの人につるし上げられて行くのです。
さらに映像は一生消えることがありません。
このようにして今の社会は「間違いが許されない」社会になってきているように思うのであります。
「間違うとネットに晒されてつるし上げられるかもしれない」という感覚が、今の世の中を生きづらくしているのではないかと思うのです。
今の社会に必要なのは「許すこと」ではないでしょうか。
他人の行いをSNSに晒して、いったいなんのメリットがあるのでしょうか。
仏教はどこまでも、自分の行いを見つめ直すことを説いています。
他人の行いに対して、今自分が何を思い、何をしているか。
他人の行いをとやかく言ったところで、自分には一切メリットがないどころか、瞋りの心をもったり悪口を言ったりした業によって、かえって自分を不幸に陥れてしまうのであります。
「他人が何をしたか」ではなく「自分が何をしたか」
お互いに許すことができることができるようになれば、もっと生きやすい社会になっていくのではないでしょうか。