カルトにハマる人の特徴

カルトになぜ人はハマるのでしょうか? 写真:photoAC

世界にはたくさんの宗教があります。


しかし、「人を救う」はずの宗教を逆手にとって、人をだまし、悪事をはたらく悪しき宗教団体もあります。いわゆる「カルト」といわれる集団です。


「自分は大丈夫」と思っていても、気がつけばカルトを信仰している場合もあります。また、家族や友人など、身近な人が入信していることもあるでしょう。


ではいったい、どんな人がカルトにハマるのでしょうか?

そもそもカルトとは?

「カルト」といわれる教団は見た目ではわからないので注意が必要 写真:photo-AC

そもそも、カルトとは何でしょうか?

辞書を引いてみると、このようにあります。

カルト

①宗教的な儀式・祭儀、ないし崇拝
②転じて、ある特定の人物への狂信的な崇拝、さらにはそういう狂信者を産み出す反社会的な宗教集団をいう語
③趣味などで愛好者による熱狂的な支持をいう

「大辞林」

ここでいうところのカルトは、上記の②にあたり、「破壊的カルト」という言葉を使うこともあります。

しかし、ある集団を「カルト」と呼ぶときに気をつけなければいけないことがあります。

ある集団をカルトと呼ぶ基準は、その集団の教義や儀礼が〈奇異〉に見えるかどうかであってはならない。あくまでその集団が、個人の自由と尊厳を侵害し、社会的に重大な弊害をもたらしているかどうかであるべきである。

「岩波キリスト教辞典」

例えば、オウム真理教が「カルト」といわれたのは、信者がヘッドギアで教祖と自分の脳波を同調させたりとか、教祖の仮面をかぶって踊りながら選挙活動をしていたからではありません。

人には信教の自由があり、これは憲法にも保障されているものです。その人の信仰の自由は認められなければいけません。だから、たとえその集団が第三者から見て奇異に見えても、それを信仰することを妨げることはできないのです。

オウム真理教が「カルト」といわれる理由は、その活動によって信者の財産が奪われ、「ポア」という言葉を使って人が殺され、サリンをまいて社会秩序を破壊しようとしたところにあります。

つまり、集団の活動に人権侵害や反社会性を帯びているかどうかで、カルトかどうかを判断しなければいけないのです。

 

しかし、これでは反社会性が明確でなければ、カルトの集団かどうかが判断できません。実際、ほとんどの教団には反社会的な面が表立ってみられないものです。教団への無条件な服従を迫られるなど、カルトの兆候を見せながらも、反社会性があるかといえば、それが表面化しなければ実際のところはわかりません。

そこで、『なぜ人はカルトに惹かれるのか 脱会支援の現場から 』の著者である、瓜生崇氏はこのように定義付けます。

カルトとは、ある特定の教義や思想、あるいは人物そのものを熱狂的に崇拝する集団であり、その組織的目的を達成するために、詐欺的な手法を用いて勧誘したり、メンバーやメンバー候補に対して、過度な同調圧力を加えて人格を変容させ、精神的肉体的に隷属させたり、経済的に無理な収奪を行ったりするものをいう。

なぜ人はカルトに惹かれるのか 脱会支援の現場から [ 瓜生 崇 ]

つまり、対外的に反社会性を持っていることは言うまでもなく、その内部のメンバーである信者に対して精神的肉体的な苦痛を与えているところに、カルトといわれるゆえんがあるのです。

しかし、カルトといわれる教団は、大多数の一般信者と、古参信者や幹部信者という二重構造でできている場合がほとんどです。

教団に入信している大多数の一般信者人は、その教団の教義をまじめに信じ、教えをよりどころとしながら、それを生きがいにして生活をしています。

ところが、入信してから年月が経った人、いわゆる古参の信者や、その教団の幹部と鳴ればまた話は変わります。どのようにして教団を大きくしようかとか、どうやって収入を増やそうかとか、信者を入れようかとか、だんだんと自分たちの利益を考えるようになります。その欲望がだんだんとエスカレートして、詐欺行為や精神的肉体的な圧力へと変わっていきます。

こうした問題は、内部の一部の人たちによって行われているので、ほとんどの一般信者がそれを知っていることは少ないです。入信して教団のために努力したのに、年月がたつにつれてその教団のしていることが実は詐欺行為だったと、あとになって気づくことも多いのです。

なぜカルトに惹かれるのか

カルトに惹かれてしまう人には、ある特徴があります。 写真:photo-AC

なぜ人はカルトに惹かれるのでしょうか?

人にはそれぞれ、どんな些細なことであれ悩みがあります。仕事がうまくいかない、恋愛が長続きしない、家庭環境がよくない、勉強がはかどらないなど、大きな悩みから小さな悩みまで、それらを挙げだしたらキリがありません。

そして、それらの悩みに対してまじめな人ほど「正しさ」を求めています。どのように仕事をするのが正しいのか、恋愛を長続きさせるにはどうするのが正しいのかなど、まじめな人ほど「正しさ」を求め、その理想に向かって進もうとするので、悩みはどんどん深くなっていってしまいます。

最初は小さな悩みだったはずが、どんどんと深みへとハマっていき、気がつけば答えのない大きな悩みへと広がっていきます。

「ねえ、受験勉強するのは何のためかな」
「え、大学に受かるためじゃないんですか」
「じゃあ、どうして大学に行くの?」
「勉強するためだと思いますが」
「何のために勉強するのかな?」
「将来の仕事に役立てるため、でしょうか」
「仕事をするのは何のため?」
「理由はいろいろだけど、一番はお金を稼ぐためだと思います」
「何のためにお金を稼ぐの?」
「生きてゆくため」
「キミは、何のために生きるの?」
「……」

なぜ人はカルトに惹かれるのか 脱会支援の現場から [ 瓜生 崇 ]

これは、瓜生氏が実際に体験した、ある教団とのやりとりです。「何のために勉強をしているか」を考えた時、その答えを突き詰めていけば「なぜ生きているのか?」という大きな根本的な問題に行き当たります。

さて、皆さんはこの答えを持っているでしょうか?

カルト教団は、この問いにもっともらしい答えを作り出し、それを正しいものと考え、そして勧誘します。この時、「なぜ生きているのか?」という問いに対して、「そんなことどうでもいいよ」「今が楽しけりゃいいよ」といって深く考えない人は、カルトどころか既存の宗教でさえも見向きもしないでしょう。

しかし、悩みを突き詰めていって「なぜ生きているのか?」という大きく答えの出せないような悩みに行きついてしまった人が教団に出会い、「これこそが正しい生き方だ」と強く説得されると、「なるほど」と納得してしまうことが多いのです。

つまり、まじめで正しさを求める人ほど、カルトに惹かれてしまうのです。

人には、自分の力ではどうにもできないことがたくさんあります。今回はうまく仕事がまわせても、次の時はどうなるかわかりません。どれだけ自分の魅力を磨いても、好きな人には振り向いてもらえないこともあります。勉強したって、それが本当に将来に役立つかどうかもわかりません。

自分の力ではどうしようもなくなった時、人は何かにすがりたくなるものです。そんな時に、自分の悩みを解決してくれるものがあれば、「正しさ」があれば、教団に入信してしまうのは極めて自然なことでしょう。

「正しさ」は人を傷つけることも

「自分は正しい」と思っている人は、カルト化しないように気をつけましょう。 写真:ぱくたそ

現代社会では、自分の意見をはっきりと明確に表現することが求められています。

テレビやSNSなどをみていても、「政治はこうあるべきだ」「仕事はこうするべきだ」「教育はもっとこうするべきだ」「育児はこうするべきだ」などと、力強いメッセージを発信している人がほとんどです。

こうした力強い言葉は、不安を懐いている人の心に深く響くことがあります。「こうするべきだ」という意見に対して「そうだ、そうだ」と共感を得たり、それによって悩みや不安を取り除くことができれば、その人はきっと言葉を発した人に付き従っていくでしょう。

そしてそれが「この人の言うことは正しい」と考えるようになってきます。

正しさが見つかると、今度は「敵」を作り、攻撃していきます。明確な「敵」を作り、攻撃をすることで、自分の正しさを主張し正当化するのです。

例えば、子育てに悩んでいる人がいるとします。「子どもはなかなか言うことを聞いてくれない、それなのに叱ってはいけないのか、褒めて伸ばすとはどういうことなのか」など、子育てに関して悩みはつきないと思います。

そこへ、ある人が「子どもは叱ってはいけません。このようにして褒めて育てましょう」と発言しました。この人の言葉に共感し、納得し、それで悩みが解決しました。

悩んでいた人にとって、「子どもは褒めて育てる」が正しい答えとなったのです。

正しさを見つけた人は、他人の間違いを指摘したくなってきます。子どもを叱っている人を見つけると、「あなたのやっていることは間違っている」と、場合によっては赤の他人にまで声をかけるようになります。

間違いを犯している「敵」を作って攻撃することによって、自分の正しさを正当化しているのです。

 

しかし、指摘された人にとってはどうでしょうか。すなわち、自分が正しいと思っていることを他人から「間違っている」と言われるのです。

これが個人的な行為なら、よくある話で終わるのでしょうが、集団になるとどうでしょう。

集団で意見を同じにして、敵を作りながら自分たちの正当性を主張する。そして、他者を排して自分たちが行きやすい環境を作り上げていく。これはまさに、カルト教団と言われる人たちが行っていることと同じではないでしょうか。

以前、SNSの誹謗中傷によって自ら命を絶ってしまった女性がいました。あるテレビ番組で取った行動が非難の的になり、SNSを通じて彼女に非難が集められたのです。

その女性を非難した人たちは、「彼女は間違っている」として自分の正しさを主張したにすぎないかもしれません。しかし、SNSという見えない仲間がいることによってその言動がエスカレートし、間違いを正さなかった相手に対してどんどん攻撃が強くなっていきました。

結果、それに耐えきれなくなった女性は、自ら命を絶ってしまったのです。

ある考え方について同調した人たちが、自分たちとは違った考え方をする人を排除しようとするこれらの行動は、気づかないうちにカルト化しているのです。

実は「カルトと無縁だ」と考えている人のうち、明らかにそのような教団に属していなくとも、カルト的な考え方になってしまっている人は少なからずいるのかもしれません。

迷いながら生きる勇気

本当の「正しさ」に答えはない。悩みながら生き抜くことこそ「正しさ」かもしれません。 写真:ぱくたそ

「正しさ」を求めることはとても大事なことです。しかし、それを求めるあまり、周りが見えなくなってしまっている場合があります。それ故に、教団で反社会的な行動を起こすようなことがあっても、「これが正しい」と思って実行してしまうのです。

オウム真理教は、信者を救うためといって「ポア」という名の殺人を犯しました。しかし、これを実行した人は、その行為が正しいと思ってやっているのです。

ものごとの価値観は、人それぞれ違います。そして世間一般の価値観と、宗教を信じる人の価値観も違います。一生懸命に仕事をしてお金を稼ぎ、稼いだお金を使うことによって社会に還元するのが当たり前と思っている人もいれば、教団のために働き、物を売って、稼いだお金は教団のために使うことが幸せだと思う人もいるのです。

立場や環境が変われば、ものの見方が変わり、価値観が変わってくるのは当たり前です。その当たり前を疑うことが、カルトにハマらないために大切なことです

「正しさ」を持つことは、迷いながら生きることを考えたらとても楽なものです。なぜなら、考える必要がないから。しかし、それがかえって生き方を見誤ることにもなりかねないのです。つまり、「正しさ」ゆえに反社会的行動を起こす可能性があるからです。

宗教は、生きていくうえで心のよりどころとして必要なものです。しかし、宗教と、あるいはその教団とはうまく付き合っていかなければいけません。

間違ってカルトにハマってしまわないように、悩みながらでも生きていく勇気を持つようにしましょう。

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