「人は見た目じゃない」という言葉をよく聞きます。それはその通りで、お釈迦様も内面である「心」を磨くことを常に説いています。
ところが、実際の所どうでしょうか。
一休さんと金襴の袈裟
かのとんちで有名な一休さんのお話に、このようなお話が残っています。
ある日、一休さんのもとへ一人の男が訪ねてやってきました。
「私は京都の高井戸家の使いの者です。実は明日、大旦那様の法事をお願いしたいのです。」
それを聞いた一休さんは、快く了承して法事を務めることを引き受けました。
使いの者が帰ってしばらくした夕暮れ時のこと。高井戸家の門前に、ボロボロで泥で汚れた薄汚い服を身にまとった、みすぼらしい格好をした男性がやってきました。
そして、
「どうぞ、お恵みを・・・」
と、合われた声を出して両手を出して物乞いをしたのです。
門前にいた使用人は、
「おまえにやる物など何もない!帰れ!」
と追い返そうとします。
しかし、その男はなかなか立ち去ろうとしません。それどころか、なおも両手を差し出します。
その騒ぎはだんだんと大きくなり、とうとう使用人の声が家の中まで聞こえてきました。
そして、それを聞きつけた高井戸家の主人が、何事かと門前へ出てきます。するとそこには、物乞いをする男が立っています。
「どうぞ、お恵みを・・・」
これを見た主人。
「おい!早くこいつを追い返せ!無理矢理にでも放り出してしまえ!」
言われた使用人は、男を蹴り倒し、往来へ投げるようにして追い出しました。そして、固く門を閉ざしたのです。
さて次の日、一休さんは約束の時間になると、きらびやかな金襴の袈裟を身につけて、高井戸家の前にやってきました。
「これはこれは、ようこそお越しくださいました」
主人を始め大勢の人が、一休さんの訪問を心待ちにして、門前まで出迎えに来ていました。
「さあ、どうぞ中へお入りください」
主人が先導し、一休さんを中へと案内します。ところが、一休さんは一歩たりとも動きません。
「どうされましたか、どうぞ中へ」
主人が声をかけると、一休さんが言いました。
「わしはここで結構じゃ」
高井戸家の人々は目を丸くして驚きました。
「わしは、ここで十分。ここが身分相応なのじゃ」
そう言うと、敷いてあったむしろの上にどかっと座り、それから一歩も動かなくなりました。
いらだちを隠しきれなくなった主人が訳を尋ねると、一休さんは言いました。
「昨日、みすぼらしい格好をした男がやってきたじゃろう。あれはわしじゃ。昨日は散々拒絶され、蹴り飛ばされた。ところが今日はどうじゃ。なんとも手厚いおもてなし。この違いは一体なんじゃ?わしの来ている袈裟が光るからじゃないのか?」
これを聞いた主人を始め人々は、顔を青ざめました。一休さんといえば、将軍や大名から尊敬される名高い僧侶。そんな人に対して、比例無礼極まりないことをしてしまったのか。
一休さんは袈裟を脱ぐと、にっこり笑って言いました。
「法事ならこの袈裟に頼むがいい。その方が功徳があるじゃろう」
そしてそのまま、帰って行ってしまいました。
人を見た目で判断する
この一休さんの話は、単純に昔に起こった出来事だとか、一休さんのとんち話だというような、全く人ごとに捉えてはいけないお話です。
実は、海外のあるレストランでも、同じような出来事がありました。
ある日のこと、ある高級レストランに、みすぼらしい容姿をしたホームレスの男性がやってきました。そして
「何日も食事をとっていないので、食べるものを分けてほしい」
と頼みました。
ところがそのレストランの従業員は、
「ここは高級レストランだ。おまえみたいなやつが来る所じゃない」
と言って追い返します。
「ほんの少しでもいいので・・・」
「だめだだめだ。何か食べたければお金を持ってこい」
そうして結局、何も食べることができずに店を去ることになりました。
またある日のこと、別のとある高級レストランに、みすぼらしい格好をしたホームレスの男性がやってきました。そして、
「何日も食事をとっていないので、食べるものを分けてほしい」
と頼みました。
するとそのレストランの従業員は、
「少々お待ちください」
と言って厨房に向かい、しばらくして戻ってくると、
「お席の用意ができましたのでどうぞこちらへ」
そう言って、食事を用意してくれたのです。
驚いた男が
「こんなお料理、いただいてもよろしいのですか?」
と尋ねると、
「実は私も昔、大変な目に遭ってお金がなくてホームレスをしていた時期がありました。困ったときはお互い様です」
それを聞いて男性は涙を流したといいます。
さて、この話はここで終わりません。
実はこのホームレスの男性は、訪れたお店を経営しているオーナーだったのです。
自分がオーナーをしている店舗の従業員の、他人に対する思いやりや態度を調査するために、変装をしていたのです。
後にこの話が広まり、料理を提供した店舗は大きく発展していったといわれています。
人は見た目が9割
「人は見た目じゃない」といいますが、見た目による第一印象はとても大きなものです。人は見た目が9割 (新潮新書 新潮新書) [ 竹内 一郎 ]という本があるくらいです。
例えば、この絵を見てください。
さて、どちらがお坊さんでしょう?
・・・と聞かれると、
ほとんどの人が右の坊主頭の人だと答えるでしょう。
でも、もしかしたらこの人はただのコスプレかもしれませんよ?(笑)
このように、私たちは人を見た目で判断しているんです。
きれい事みたいに「人は見た目じゃない」なんて言いながら、見た目で判断しているのが人間です。
自分の心を正しく見る
仏教では「正見」といって、物事を正しく見ることを常に教えています。
人を外見だけで判断することなく、相手に対して自分が今なにをすべきなのか、正しく見なければいけません。
しかし、「正しい」というのはとても難しく、何が正しく何が正しくないか、私たちには判断することができません。人を見た目によらず、その人そのものを正しく見ることができずに、見た目で判断してしまっているのが私たちです。
でも逆に考えると、「人を見た目で判断してしまっている」と言うことをよくよく理解することが大事であり、それこそが自分にとっての正しい見方なのではないでしょうか。
「正しく見る」のは、相手ばかりじゃなく、自分の心も正しく見なければいけません。
人を見た目だけで、「こわそう」とか「やさしそう」とか判断してしまった時、「今、自分は、人を見た目で判断してしまった」という自分の心に気づくことで、それだけで他人に対する見方が変わって行くでしょう。