仏の世界は近くにある
和歌山には「紀三井寺」というお寺があります。
和歌山のお寺といえば、この紀三井寺を思い浮かべる人も多く、県内県外を問わず、たくさんの人がお
参りをしてその信仰を集めております。
少し紹介をさせていただきますと、紀三井寺は正式名称は紀三井山金剛宝寺護国院といい、紀州にある三つの井戸があるお寺ということで、紀三井寺と名付けられたといわれています。
これは清浄水、楊柳水、吉祥水と呼ばれ、今でもこんこんと湧き出して一年を通して絶えることがありません。
お寺の始まりは宝亀元年(770)中国の僧侶である為光上人によって開創されました。爾来およそ1250年の歴史を誇るお寺であります。
為光上人は中国から日本へと渡ると、観音様の慈悲の光によって人々を救おうと、諸国をめぐり、その教えを広められました。
旅の途中たまたまこの地に寄り、霊光を感じて千手観音さまの尊像を感得されました。
上人は、この地こそ観音様の霊場であり、仏法を広めるための聖地であると考え、十一面観世音菩薩像を、自ら一刀三礼のもとに刻み、お堂を建立して安置されました。
それが紀三井寺の起こりとされています。
その後、後白河法皇が勅願寺と定め、いよいよその隆盛を極め、また江戸時代には紀州徳川家歴代藩主が頻繁にお参りをされて、「紀州祈祷大道場」として繁栄されたのであります。
真言宗山階派の寺院でしたが、昭和26年に独立して現在は、救世観音宗の総本山となっています。
先日お参りをさせていただきましたが、なんとも立派なお寺で、改めてその歴史や観音様の功徳を感じるのであります。
山門をくぐってまずやってくるのは、231段の石段であります。
この石段を上るのがひと苦労なのでありますが、苦労して上った先に見える景色は、別世界のようです。
それはまるで、娑婆の世界から、仏の世界へとやってきたというような、そんな気持ちになるのであります。
本堂に行きますと、ご本尊である十一面観世音菩薩様と、並び立つ千手観音菩薩様がお祀りされています。
秘仏でありますので、そのお姿を拝見することはできませんが、御手の糸でつながれており、その糸から功徳を感じることができます。
また、本堂の反対側に建てられている仏殿には、高さ12メートルの大千手観音菩薩像が祀られてあり、建物の三階まで登れば目線の高さからそのお姿をお参りできます。
境内の全域にわたって、観音様の功徳を知ることができるお寺であります。
紀三井寺は、西国三十三観音霊場の第二番霊場となっており、このような御詠歌が伝えられています。
ふるさとを
はるばるここに
きみいでら
はなのみやこも
ちかくなるらん
今から一千年ほど前、花山法皇が西国三十三所の観音霊場を巡拝された際に詠まれたものだと伝えられています。
ホームページでは、このように和歌の説明がされています。
紀三井寺のご詠歌は、花山法皇様がご自身の「ふるさとである京の都を後にして、幾千里の山河を越え、熊野・那智山からはるばるここ紀三井寺にやっとの思いで到着してみると、折から水ぬるむ春近き季節で、わがふるさと、京の都も近づいたこともあって、ほっと安堵することよ」とのご心境をお詠みになったものでしょう。
しかし、もう一つ仏の道からの解釈によりますと、「迷いの多い娑婆世界を後にして、観音信仰ただ一筋におすがりし、一足一足に『南無観世音菩薩』とお称えしつつこの紀三井寺まで参りましたところ、迷いに閉ざされていた心の眼も次第に開かれて、花の都、仏様のお浄土も間近なように思えます」
とのお心にも受け取ることが出来ようかと思われます。
紀三井寺HPより
紀三井寺は、日本遺産「絶景の宝庫、和歌浦」の一部として認定されるほど、そこから見る景色はまさに絶景であります。
花山法皇は、紀三井寺から見るこの景色を見て、そこから仏の世界を感じ取られたのであります。
仏様に手を合わせて心を至すことによって、遠くにあるような仏の世界も、間近に感じることができるのでありましょう。
「観無量寿経」というお経の中には、「去此不遠」ということばがあります。
訳せば、「ここを去ること遠からず」ということになりますが、これは観無量寿経のお経の中で、お釈迦様が韋提希に対して言ったことばであります。
「阿弥陀仏、ここを去ること遠からず」
阿弥陀仏のある極楽浄土は、西方十万億の仏国土を過ぎたところにあるといわれています。
これは一見、あまりにも遠いように思いますが、実はそうではないことを表しているのです。
その理由に、善導大師は三つの理由をあげています。
ひとつは、仏の世界というのは無量無数にあります。その中で十万億という距離は、そう遠くないということです。
二十万億や三十万億先と比べると近いということであります。
ふたつめは、これほどの距離にあるとはいえども、念仏によって一瞬のうちに極楽浄土に生まれることができます。
みっつめは、心に仏の心をいただくことができれば、目に映るものはすべて極楽浄土のようなすばらしい景色へとかわるということです。
つまり、私たちのいる世界がそのまま仏の世界になるということであります。
花山法皇が紀三井寺から見た景色も、まさにこのようなものだったのではないでしょうか。
そこから見渡す景色は、まるで仏の世界であるかのように、なんとも言えない美しい世界が広がっていたのでありましょう。
遠いようで近い仏の世界に思いを寄せ、今日も手を合わせるのであります。