オリンピックの聖火に見る仏の光り

オリンピックの聖火に見る慈悲の光り

オリンピックの聖火に見る仏の光り

先日、北京オリンピックが開幕されました。

2008年には夏のオリンピックが開催され、14年ぶりの開催となるわけでありますが、夏と冬の両方を同じ都市で開催することは史上初だそうであります。

私には小学一年生の息子がおりますが、普段はほとんど見ることのないオリンピックの様々なスポーツ競技に興味を持ったようで、テレビを通して一生懸命に応援しております。

このような四年に一度のスポーツの祭典に巡り会うことは、本当に貴重な体験であります。

息子には、ここから多くのことを感じ取ってもらえたらと思うのであります。

オリンピックといえば、聖火リレーがひとつの見所であります。

オリンピックの始まりの地であるギリシャで採火された聖火は、開催国へとわたってランナーたちによって次から次へと引き継がれ、そして開会式の時に聖火台へと灯されます。

どのように聖火台に灯されるのか、開会式では世界から大きな注目を浴びるポイントであります。

今回の北京オリンピックは、今までにない演出でありました。

聖火ランナーのトーチが、そのまま聖火台になるのであります。

静かに輝くその炎には、不思議と引きつけられるものがありました。

これについて、2月6日の和歌山新報のコラム「しんぽう抄」では、このように出ておりました。

今回の冬の開会式の演出は、14年前の夏の豪華さや大迫力とは対照的に、シンプルで静かなものだった。聖火リレー最後のランナーが巨大な雪の結晶の中心にトーチを置き、そのまま聖火台になった。中継のアナウンサーが「消え入りそう」と口にするほど、炎はささやかで、小さかった。

雪の結晶は、参加国91ヵ国・地域の名前を記したさらに小さな結晶で形作られ、中心の聖火は、個々の結晶を溶かすことなく照らし出す光のようだ。

和歌山新報

「中心の聖火は、個々の結晶を溶かすことなく照らし出す光のようだ」とは、とても味わいのある表現であります。

政治的、経済的に苦しんでいる人が世界に多くいる中で、それでも分け隔てすることなく光り輝く、太陽や月を思い起こさせます。

さらに私は、ここに阿弥陀仏の慈悲の光を連想しました。

阿弥陀経には、「かの仏の光明無量にして、十方の国を照らすに障礙する所なし。この故に号して阿弥陀となす」とあり、阿弥陀仏の光の由来が説かれてあります。

十方にある国のすべてを照らし、妨げられることなく輝く仏の光は、量り知ることができません。

この光をインドの言葉で「アミターバ」といいます。

だから「阿弥陀」というのであります。

さらに、無量寿経には「それ衆生あって、この光に遇う者は、三垢消滅し身意柔軟なり。歓喜踊躍して、善心生ず。もし三途勤苦の処に在って、この光明を見たてまつれば、皆休息を得て、また苦悩なし。寿終の後、皆解脱を蒙る」とあります。

阿弥陀仏の光にあえば、怒り、貪り、無智の三毒の煩悩が生滅し、心も体も柔軟になります。その喜びから善の心が生じます。

苦しみの世界にありながら、阿弥陀仏の光をみることができれば、苦しみから解き放たれて、安らぎの境地にいたることができるのであります。

まさにそれは、聖火の光が個々の結晶を溶かすことなく照らし出すように、阿弥陀仏の慈悲の光が、私という小さな存在をそのまま照らし、救いとってくださるようなものでありましょう。

総本山光明寺第69世関本諦承上人は、

「くらき世の人のこゝろのそこひまで照らすは弥陀の光りなりけり」

と詠んでおられます。

関本上人は1860年の生まれであり、江戸時代の終わりから明治、大正、昭和の時代を生きた方であります。

戦争を始め、不況などによる経済的な貧しさを経験しておられます。

そんな時代でありますので、おそらく多くの人の苦しみや悲しみというものを、より間近で見ておられたことでありましょう。

だからこそ「くらき世」を生きる人々の心を照らすのは、阿弥陀仏の慈悲の光りしかないと考えておられたのではないかと思うのです。

現代もそう変わらないのではないでしょうか。

悩み苦しむ人は世界中のあちこちにいます。

阿弥陀仏の光りがすべての人を照らし、必ず救ってくださることのように、オリンピックの聖火の光りが世界の人々の希望の光となることを願うのであります。

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