人生の第一義はなにか
決断力のない私は、多くの場合においてすぐに判断して決めることができません。
身近なところでいうならば、朝ご飯のおにぎりの具を選ぶのにでさえ、かなりの時間がかかってしまいます。
先日、おにぎりを買おうとコンビニへ寄ったときのことです。
いつも具を選ぶのに時間がかかるので、迷わないようにはじめから「梅と昆布のおにぎりを買おう」と決めていました。
しかし、いざ商品の目の前に立つと、たくさん種類のあるおにぎりがどれもおいしそうに見えてきます。
すると、やっぱりシャケにしようか、明太子にしようか、五目ご飯にしようかと、あれやこれやと目移りしてしまいます。
いやいや、これでダメだと、やっぱりあらかじめ決めておいた梅のおにぎりを探すと、今度はそれにもいくつか種類があって、普通の梅か、しそ入りか、のりはパリパリかと、梅おにぎり一つ選ぶのに一苦労です。
そうこうしている間に、別の客さん2,3人が私の前にやってきて、早々とおにぎりを手にして会計を済ませ、退店していきます。
私のあとから入ってきたお客さんが、私より先に出ていくのを見ると、自分がどれだけ時間がかかっているかがよくわかります。
決断力がないというのか、優柔不断というのか、どちらにしても、ものごとを一つ決めるのにもかなりの時間を費やしてしまうのであります。
「決断する」とは、「断つことを決める」ことだと教わりました。
やるべきととやらないことをきっちりと判断し、やらなくてもいいことは捨ててしまうこと。
そうすることで本当にやるべきこをとひとつに絞ることが、決断であるというのです。
お釈迦様はシャカ族の王子として生まれ、育ちました。
だから、欲しいものは何でも手に入り、食べたいものは何でも食べられる環境にあったといわれています。
それはまるで、現代の私たちのようであります。
24時間営業のお店があちこちに増え、100円でおおよそのものが買えて、料理ができなくても好きなものが食べられます。
スマホを開けばボタンひとつで買い物ができます。
世界のあらゆる情報も、一瞬で手に入ります。
しかし、こんなにものや情報にあふれた世界だからこそ、迷うことも多いのではないかと思うのであります。
そしてお釈迦様は、王子という身分を捨て、家族を捨て、生活を捨てて、出家をしました。
悟りを開くことを目標にただひたすらに修行に打ち込むことを決断したのであります。
また、法然上人は、「選択本願念仏集」という書物を書き表して、諸行を捨ててただ一筋に念仏に励むことを選び取りました。
念仏の生活に生きていくことを決断したのであります。
さらに法然上人の「和語灯録」には
「現世をすぐべき様は、念仏の申されん様にすぐべし。念仏のさまたげなりぬべくば、なになりともよろづをいとひすてて、これをとどむべし」
といいます。
これについて、浄土宗の僧侶であり仏教学者でもある梶村昇先生は、このように言っておられます。
上人にとって、念仏は、この世を過ごすために最も大切なもの、言葉を換えれば、人生の第一義であったということである。このことをはっきり知れば十分であろう。仮にこの言葉をもって先の文を書き換えてみると、
現世をすぐべき様は、人生の第一義がなされる様にすぐべし。人生の第一義をおこなうさまたげになりぬべくば、なになりともよろづをいとひすてて、これをとどむべし。
ということになる。上人は人生の第一義を念仏と受け取られた。それならば、われわれはそれを何と受け取ろうとするのか、そこが問題である。
仏教名句・名言集 [ 大法輪閣 ]
法然上人は、生活のすべての中心がお念仏でありました。
お念仏をするために食事をし、睡眠をとっていたのです。
いらないものはいらないと、はっきりと捨ててしまうことができれば、きっと迷うこともなくなるのでありましょう。
私が高校生の時代でありますが、当時仲のいい友達がおりました。
一年生の時から一緒に部活にも打ち込みましたが、彼はそれ以外にもいくつかの部活を掛け持ちし、さらには生徒会活動など、多くの分野で活躍をするような生徒でした。
しかし、三年生の二学期が始まると、それまで取り組んでいた部活をすべてやめて、受験勉強に打ち込み始めたのです。
どうしたのかと聞くと、彼には目標があり、そのためにどうしても行きたい大学があるのだと言いました。
本当はいろんな事をしたいけど、それでは絶対に自分の目標は達成できない、だから今やるべきことだけをやるのだというのです。
彼はその努力が報われ、みごと大学に合格しました。
今思えば、彼がまさに決断をした瞬間であったと思うのであります。
ものや情報にあふれ、なにをどのように選び、進んでいくべきか迷うことが多くあります。
自分の人生の第一義は何なのか、よく考えていきたいものであります。