懺悔とは
久しぶりに雪が積もりました。
温暖化の影響もあってか、今では一年に一度積もるか積もらないかという程度しか、雪は降りません。
だから、私としては雪が積もると心なしかうれしく思うのであります。
今朝もこっそりと、小さな雪だるまを作ったのでありました。
法然上人は、雪についてこのような歌を残しておられます。
「ゆきのうちに仏のみなをとなうればつもれるつみぞやがてきえぬる」
降り積もった雪と、自分自身に積もり積もった罪とを重ね合わせた歌であります。
善導大師は「念々の称名は常の懺悔なり」といい、念仏をすることは懺悔をすることであるといいます。
私たちは、知らず知らずのうちに罪を犯し、周りに迷惑をかけながら生きています。
よかれと思ってしたことで、かえって相手を傷つけているということがよくあります。
こんなお話があります。
ある人が車を運転して道を走っていました。
しばらく走っていると、少し先に横断歩道が見えてきました。
よく見るとそこには、横断歩道を渡ろうとしているおばあさんがいることに気がつきました。
おばさんは右手に杖をつき、左手にはスーパーの買い物袋をさげています。
車が通り過ぎようとしているのを、待っているようでありました。
信号機のない横断歩道をわたろうとしている人がいたら、車は止まらなければいけません。
そこで、横断歩道の手前で車を止めて、おばあさんに先にわたってもらおうとしました。
車を止めると、おばあさんと目が合ったので、「お先にどうぞ」と合図をすると、おばあさんのほうも「お先にどうぞ」と合図を送ってきました。
一瞬とまどいながらも、「いやいや、おばあさんのほうこそお先にどうぞ」ともう一度合図を送ると、軽く会釈をして横断歩道をわたり始めました。
杖をつきながら、反対の手には買い物袋をさげて、一生懸命に横断歩道を渡ります。
車に止まってもらっているのが悪いと思うのか、少し早足で急いでいるように見えます。
転んだりしたら危ないから、ゆっくりわたってくれていいのにと思いながら、車の中からその様子を見守っていました。
と、そのとき、おばあさんが目の前で転んでしまいました。
車から降りて、慌てて助けに行き、「大丈夫ですか」と声をかけます。
すると、おばあさんはゆっくり起き上がると、このように言いました。
「あんたが先に行ってくれたら、私はゆっくり横断歩道を渡れたのに。待ってられたら、こっちは急いで渡らないけなくなる。あんたのせいでコケたんだ」
とんだ言いがかりの様にも思いますが、先に横断歩道を渡るように促したことで、慌ててしまって転んだんだというのです。
自分が先に行ってしまえば、おばあさんは転ぶことなく渡りきったかもしれません。
これがもしお釈迦様なら、自分が先に行く方がいいのか、おばあさんに先にわたってもらう方がいいのか、よりよい方を選ぶことができたのではないかと思うのです。
しかし、私たちにはその判断ができません。
よかれと思ってしたことが、かえって悪い結果を招いてしまうこともよくあるのです。
だから、行ったことをひとつひとつ確認して反省することが大切であります。
西山上人は、
「懺悔とは罪を罪と知り悔い返す心なり」
として、自分自身の罪の自覚をすることを懺悔と示しています。
よかれと思ってしたことも、かえって相手を傷つけていたときには、「よかれと思ってしたのに」と腹を立てることなく、「今の自分の行動は相手を傷つけてしまったのだ」と受け入れることが大切なのです。
そして、反省の念仏をすることによって、その罪が滅せられるのです。
「観無量寿経」にも
「是の如く至心に声を絶えざらしめて、十念を具足して南無阿弥陀仏を称えしむ。仏の名を称えるが故に念々のなかにおいて八十億劫の生死の罪を除く」
とあります。
罪を作ることは、輪廻という苦しみを生み出す原因です。
罪が除かれるということは、この輪廻の原因となる悪業が消されるということです。
念仏によって悪業が消されて、これによって罪深い私であっても、浄土に往生することが叶うのであります。
積もり積もった雪が溶けて消えるように、念仏によって罪が消されるというのは、思えば思うほど、大変ありがたいことであります。