「慈悲」とは「思いやり」の心
仏教には「慈悲」という言葉があります。「慈」は相手に楽を与えること、「悲」は相手の苦しみを抜き取ってあげること。この二つが合わさった言葉が「慈悲」です。
慈悲とは、言い換えれば「思いやり」の心ではないでしょうか。相手をいつくしみ、どうにかして悲しみ苦しみを取り除き、楽を与えてあげたいという、他人を思いやる心、それが慈悲の心です。
仏道修行に励む人にとって、慈悲の心は欠かせないものです。お釈迦様もまた、この慈悲の大切さを説かれています。
何ぴとも他人を欺いてはならない。たといどこにあっても他人を軽んじてはならない。悩まそうとして、怒りの想いをいだいて互いに他人に苦痛を与えることを望んではならない。あたかも、母が己が独り子を命を賭けて護るように、そのように一切の生きとし生けるものどもに対しても、無量の慈しみのこころを起こすべし。また全世界に対して無量の慈しみの意を起こすべし。上に、下に、また横に、障害なく怨みなく敵意なき慈しみを行うべし。
アメリカのアイオワ州の大学で行われた興味深い実験があるので、紹介します。
実験に参加した496人の学生を4つのグループ(A, B, C, D)に分け、それぞれ大学の構内を12分間散歩してもらいました。その際、グループごとに散歩中の行動を指定しました。
Aグループ:散歩中にすれ違った人に対して、優しく情愛のこもった思いをもって「幸福でありますように」と願う。
Bグループ:散歩中にすれ違う人と思考や感情がどのように共有できるかを考える。
Cグループ:すれ違う人よりも自分のほうがすぐれているという優越感を持つ。
Dグループ:相手の衣服やアクセサリーなど外見にのみ目を向ける。
そして、参加したすべての学生について、散歩をする前と後で、幸福感や満足感がどのように変わったかが研究されました。
実験の結果、他人の幸福を願ったAグループの学生は、自身の幸福感や満足感が突出して高く、逆にストレスや不安感が少ないことが明らかになりました。
つまり、他人の幸せを願うことは、自分の幸福感を増幅させるということがわかったのです。
「自分が幸せになりたいなら、他人の幸せを願いましょう!」と、このような言葉で簡単に片づけられるほど、幸せになることは容易ではないかもしれません。
しかし、逆に自分のことばかり考え、自分中心に考えていると、幸福から遠ざかってしまいます。先の実験のCグループのように「他者に対して優越感を持つ」ことは、他者と比較することで競争心が生まれ、結果として精神的なストレスや不安をもたらすと言われています。
このことからも、他者に対する心構えの大切さがわかるでしょう。
お釈迦様を含め、すべての仏様の心は慈悲の心です。そして、仏道修行に励む人が持つべき心もまた慈悲であり、慈悲の心でもって修行に励んでいく必要があります。
日常生活においても同じことがいえます。他人を思いやる心こそが、より良い人格を作り、そして自分自身の幸福へとつながっていくのです。
供養なら、和歌山かんどり本山総持寺へ
他者を思いやる心「慈悲」は、全ての人に向けていくように心がけることが大切です。それは、生きている人に限ったことではありません。大切な亡き人のおかげ。ご先祖様のおかげ。仏さまのおかげ。こうした気持を持つことも、大切な思いやりの心「慈悲」なのです。
この慈悲を具体的に形にあらわしたときに行う行為のひとつが「供養」なのです。
「供養」とは、このいただいた命への感謝であり、ご先祖様や故人様への思いやりや報恩の心を形にする行いです。
和歌山市に位置するかんどり本山総持寺は、「いつでもお参りができるお寺」として、心の通う供養を大切にしています。仏さまやご先祖さま、故人を偲ぶ場所は、いつでも気軽に訪れられる場所であってほしい。そんな願いを形にしたのが当山です。
特に近年ニーズが高まるお納骨や永代供養についても、安心して任せていただけます。永代にわたる供養と管理を通じて、ご遺族様の負担を軽減し、「近いからいつでも会いに行ける」という安心感を提供します。
ご供養は、命をいただいて今を生きていることに感謝をし、自分自身の心も清める大切な行いです。しあわせな未来を生きていくために、ご供養は、歴史と安らぎに満ちたかんどり本山総持寺へ、ぜひご相談ください。