守るべき十種の戒

守るべき十種の戒
菩薩が守るべき十種の戒があります。写真は総持寺の中庭

守るべき十種の戒

夏が近づくと、境内の至る所で雑草が生えてきます。

抜いても抜いても、次から次へと生えてきます。

まるでそれは、いつまでたっても消えることのない私の煩悩を顕しているようにも感じるのであります。

お寺の中庭の草抜きをしていたとき、その隅の方にひとつ生えていた笹を引っ張ると、それにつられて固い根っこが土の中から浮き上がってきました。

その根っこをたどっていくと、大元とと思われる笹にたどり着きました。

笹は広がるようにして広範囲に根を張るといいます。

よく見ると、中庭のあちこちに笹の芽が出ています。

そして、根っこをたどっていくと、そのどれもが同じ所へと行き着くのであります。

笹の生命力の強さに、改めて驚かされたのでありました。

まさに縦横無尽に張り巡らされた笹の根っこを見て、私は仏さまの功徳を思い起こしました。

仏の功徳も同じように、縦横無尽に巡らされて、私たちのもとに届けられているのであります。

仏教では「三学」といって、戒、定、慧の三つを学ぶことを教えています。

戒は生活習慣のことです。

善いことをして、悪いことをやめて、善いことをするということを、まずは習慣にしなければいけません。

それは、例えば車を運転するようなものです。

信号の赤は止まる、青は進むというルールを考えずにできるようにするようなものなのであります。

信号機の前に来るたびに、「赤は止まるのか進むのか?」などと考えていると、考えている間に交差点を過ぎてしまいます。

あるいは、そこであわててしまって、間違った選択をしてしまうかもしれません。

赤は止まる、青は進む、というルールを当たり前のようにできるから、安全に車を運転することができるのであります。

戒を守り、それが習慣化されることによって、余計なことを考えずに修行に打ち込むことができる。

そうして心の安定である禅定に至り、智慧を身につけて悟りを得ることができるのであります。

ところが、私たち凡夫には自分の力で戒を守ることさえできません。

戒を守ることもできないので、心の安らぎも、智慧を身につけて悟りに至ることもできません。

しかしそんな私たちを、仏さまが救ってくださるのであります。

私たちがしなければいけない修行を、代わりに仏さまがしてくださり、その功徳を受戒儀式によって心に宿し、戒を身につけるというのであります。

『梵網経』では十重禁戒という、菩薩が守るべき十種の戒が説かれています。

1,不殺生戒(生き物を殺してはいけません)

2,不偸盗戒(盗んではいけません)

3,不淫戒(男女の関わりを持ってはいけません)

4,不妄語戒(嘘偽りをいってはいけません)

5、不酤酒戒(酒を売ったり飲ませたりしてはいけません)

6,不説四衆過戒(他人の間違いを吹聴してはいけません)

7,不自讃毀他戒(自分では威張り、相手にはそしったりけなしてはいけません)

8,不慳惜加毀戒(ものおしみをしてはいけません)

9,不瞋戒(怒ってはいけません)

10,不謗三宝戒(仏・宝・僧の三宝を謗ってはいけません)

これらの罪を犯す者は、波羅夷罪といって、教団追放の罪にあたるといわれています。

そして、この戒は諸仏の根源であり、菩薩の根本であると説かれています。

梵網経の教主である盧舎那仏も、わが宗の本尊である阿弥陀仏も、現世に表れたお釈迦様も、そのほかの仏さまも、すべて十重禁戒を守ったので、仏となったというのであります。

この十重禁戒は、十無尽戒ともいわれます。西山上人はこれについて

「十無尽戒とは菩薩の十重禁戒なり。(中略)横は一切の戒を収め、竪には三世に亘りて尽くること無ければ殊更に無尽の名を顕すなり」

といいます。

戒には、五戒、八斎戒、十戒、十善戒、二百五十戒、五百戒などたくさんあり、さらにはお釈迦様の教えである八万四千の法門のすべてが戒であります。

それらすべてが、この十無尽戒に収められているのです。

さらに、受戒儀式によって戒を宿した上は、二度と無くなることがなく、未来世一切にわたってこの功徳が続くのです。

それはまさに、笹の根が縦横無尽に張り巡らされているようなものであります。

仏の功徳がすべてに蔓延しているのであります。

自分の力で戒を守ることができず、地獄に落ちるかもしれない私であっても、仏の力によって戒が身につき、その功徳によって仏となることができるのであります。

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