「一生懸命」の方向性
私たちは、毎日を一生懸命に過ごしています。
一生懸命に仕事をして、一生懸命に食事をして、一生懸命に勉強して、一生懸命に子どもを育て、一生懸命に他人と関わり、一生懸命に今を生きています。
しかし、一生懸命やっているのにうまく物事が進まなかったり、結果がなかなか出なかったり、一生懸命やればやるほど苦しくなったり、そもそも一生懸命に何かをすること自体がしんどくなったりします。
それはもしかしたら、「一生懸命」の方向性が間違っているのかもしれません。
お釈迦様は一族の王子として生まれました。
裕福な家庭に生まれ、欲しいものは何でも食べられるし、着たい服は何でも着れるし、いつも自分を世話してくれる人がたくさんいて、何でも思い通りになるような生活をしていました。
ところが、衣・食・住において何不自由ない暮らしをしていたとしても、それはお釈迦様にとって幸福とは思えませんでした。いくら欲しいものが手に入ったからといって、結局人は年をとり、病気になり、やがて死んでいかなければいけません。一時の欲望の充足に、何の意味があるのでしょうか。
そう感じたお釈迦様は、本当の心の安らぎを求めて出家をします。そして、厳しい修行生活を送ります。そして「苦行」に励みます。長時間行きを止めたり、何日も食事をとらない断食をしたりなど、当時は身体的に苦しむことで真の安らぎが得られると考えられたのです。
しかし、これでは悟りを得られないことに気がついたお釈迦様は、肉体を痛めつける苦行を捨てて、心を鍛える瞑想修行に励みます。結果、悟りを開き、ブッダとなって真の安楽を得ることができたのです。
お釈迦様は、「王子としての裕福な生活」「出家者としての苦行の生活」という、楽と苦の両方の生き方を経験し、そして最終的にその両方をも捨てた道を選び取りました。
この、楽にも苦にもとらわれない生き方のことを「中道(ちゅうどう)」といいます。
お釈迦様は自らの体験をもとに、厳しさと緩さの間の道を行くことを説かれたのです。
一生懸命にしていても苦しみやつらさを感じているとき、その裏には必ず何かしらの原因があります。
その原因は、もしかしたら一生懸命の方向性が違うかもしれません。
そんなときは一度立ち止まって、客観的に自分を見つめ直してみましょう。
「何のために」「誰のために」一生懸命になっているのでしょうか?自分のエゴで一生懸命になってはいないでしょうか?
お釈迦様の教えは「中道」です。とらわれてはいけません。自分がいいと思っていることでも、それが必ずしも相手にとっていいというわけではないこともあります。
私たちが感じている「一生懸命に頑張っているのに」の裏には、「私が」という自我意識が大きく関わっていることがあります。「(私が)一生懸命頑張っている」というのは、自分がしたいことを押し通そうとするエゴの表れです。そのエゴによって、悩み苦しんでいるのです。
つまり、一生懸命に頑張っているのに苦しみが生じるのは、自分の心にあるということです。
凝り固まってしまった、自分の偏った考え方を捨てて、「何のために」「誰のために」一生懸命になっているか、その目的をもう一度よく考え、一生懸命の方向性を正しい方へと持っていくようにしましょう。