110歳の寿命をまっとうする
和歌山県で最高齢だった、紀の川市貴志川町の中野エイさんという方がお亡くなりになったとのニュースを拝見いたしました。
お歳はなんと110歳だったそうであります。
6月26日付けの和歌山新報によると、中野さんは1912年に、9人兄弟の第5子、三女として貴志川町に生まれ、80歳まで町内でたばこ屋などの小売店を営んでいたそうです。
晩年は親戚の人が気にかけて家を訪ね、看護師やヘルパーさんも一日6回訪問していました。
最後はひっそりと眠るように死を迎えたそうであります。
中野さんは若い頃から歌を詠むのが趣味だったそうで、2011年7月7日には歌集も出されました。
出版業を営む甥の中野富生さんが、中野さんの歌を一冊の本にまとめました。
題名は『名も知らぬ花』
これは、中野さんの歌から名づけたものだそうであります。
「朝ごとに一輪咲きて老いの身をいたわりくれし名も知らぬ花」
病気や加齢によって、思うように身体が動かない日もあったことだと思います。
そんな中野さんを、名前も知らぬ一輪の花が、その身体をいたわってくれたのでありましょう。
生涯独身であったそうですが、そんな彼女を、身近な日常の風景が支えていたのかもしれません。
花を愛でて、それに安らぐ中野さんの様子を思い起こさせるような歌であります。
記事の中で、甥の中野富生さんのコメントが掲載されています。
中野富生さんは「エイさんの老いは理想の姿。そんな人が身内にいるのがうれしく、手本にして生きていきたい」としのんだ。
富生さんは言う。「死はいずれ、一人で迎えるもの。その現実を直視したエイさんが残した言葉の数々は、『敬老』などという言葉をはねつけて凛としている」
和歌山新報
この言葉から、110歳まで生きた中野エイさんが、どれほど周りの人に慕われ、愛されていたかということが、よくわかります。
「寿命」という言葉がありますが、「寿」は時間を表し、「命」は身体を維持するはたらきをあらわします。
私達は、この世界では限られた時間しか生きることができません。
しかし、それはご先祖様から受け継いできた命の上に存在しているのであります。
そして同じように、後の世代にも永遠に伝えられていくものでもあります。
この量り知れないつながりの根源が「無量寿仏」であり、すなわち阿弥陀仏であります。
私達には量ることのできない大きな力を阿弥陀仏という仏にかえて、手を合わすのであります。
人は、死ぬとそれで何もかも終わりだと聞くことがありますが、私はそうは思いません。
心や思い出はいつまでも残り、伝わっていくものです。
以前、こんな話を聞きました。
あるお宅のおじいさんが亡くなりました。
家族葬儀でお葬式を済ませ、とりあえず形式的に満中陰まで行いました。
ご家族の方はあまり関心が無く、「言われたからやっている」というように見えたそうです。
満中陰が終わったあとも、お寺にはお参りに来ることもなく、お彼岸やお盆のお参りもしませんでした。
それからしばらくして、もうすぐ一周忌だというころ。神妙な面持ちで、ご家族の方がお寺にやって来ました。
「きちんとした形で、一周忌を勤めたい。どうすればいいのでしょうか」
とのことでした。
今までとは打って変わった様子だったので、事情を聞いてみました。
すると、一枚の封筒を見せてくれました。
そこには、おじいさんの字で「願い」と書かれていました。
おじいさんの遺品を整理していたとき、引き出しからこれがでてきたというのです。
そして中には、家族の健康や幸せを願う言葉が書かれた手紙が入っていました。
普段はどちらかと言えば無口で、他人とのコミュニケーションが少し苦手だったようです。
そのせいもあって、家族とすれ違うようなこともしばしばあったといいます。
しかし、手紙がでてきたことで、実はおじいさんがとても家族のことを気にかけていたということを知ったのであります。
まさかあのおじいさんが、私達のためにこんな願いを持って祈っていてくれたなんて、思いもしなかった。
これを機に、改めてきちんと一周忌の法要を勤めたい、おじいさんと向き合ってきちんと供養してやりたい、ということでありました。
人を思う気持ちは、命終わっても伝わるのだということを教えてくれるお話であります。
中野エイさんの甥の富生さんは
「エイさんの老いは理想の姿。そんな人が身内にいるのがうれしく、手本にして生きていきたい」
と言いました。
富生さんの心の中で、エイさんは永遠に生き続けているのでありましょう。
死んでなお、誰かの心に残り続ける事のできる、そういう生き方をしたいものであります。