仏と一体となる心地
先日、ふと自宅の前の川をのぞいてみますと、月が写るのが見えました。
水が流れる中で、ゆらゆらとゆれる月のあかりを、しばらく見ていたのであります。
なんともいえない静かな時間が、そこに流れているような気がいたしました。
当寺は、宝徳二年(1450)播州赤穂の豪族であった赤松家の出身である、赤松明秀上人によって開創されました。
上人は西山派の教えを深く学び、多くの書物を残されました。
その一つである『愚要鈔』には、西山派の教えがわかりやすく説かれています。
この中に「帰命発願の心水、浄く澄みぬれば、即是其行の仏月、影を浮かぶ」とあります。
私たちの心と、阿弥陀仏の救いを、水と月に例えた言葉であります。
自分の力ではどうにもならない私が、阿弥陀仏に帰命し、極楽浄土に生まれたいと願ったとき、その心は濁りのない清らかな水のようで。
その濁りのない清らかな水には、私を救おうという仏の慈悲のひかりがそのまま映し出されるのであります。
帰命発願とは、阿弥陀仏にこの身このままお任せし、極楽浄土に生まれたいと願うこと。
即是其行とは阿弥陀仏のはたらきのことで、私を救おうとする慈悲の力のことであります。
水面に月が映るということは、これらがひとつになるということであります。
善導大師は『観経疏』の中で
「南無と言うは即ち是れ帰命なり、また是れ発願回向の義なり」
「阿弥陀仏と言うは即ち是れ其の行なり、この義を以ての故に必ず往生を得」
といいます。
南無である帰命する私と、私を救う阿弥陀仏とが一体となったところが、南無阿弥陀仏となるのであります。
南無阿弥陀仏を称えることによって、往生が叶うのではありません。
私の力に関係なく、阿弥陀仏は私を救ってくださるのだと理解することを、念仏というのであります。
自分の力で水に月のひかりを映し出すのではなく、月のひかりがあるから映し出されるのです。
そればかりか、月の光を映し出す水があって、月と水が両立して始めて叶うことができるのであります。
法然上人の
「月影のいたらぬ里はなけれどもながむるひとの心にぞすむ」
という歌も同じ心地であります。
月のひかりと、それを眺める人。
この両者があいまって、「心にぞすむ」という、安らかな心地が生まれるのであります。
これを善導大師は「彼此三業不相捨離」と表現し、阿弥陀仏と私は離れることがないと説いたのであります。
また、西山上人もたとえをもってこの心地を表現しています。
「往生といふは仏の御心と我心と一に成りあいたる所を申すなり。其の一になる処をば火木の譬をもって心得べし。乾きたる木に火をつけたる、何れを火とも何れを木ともわけがたきがごとく」
「我心と仏心と一に成りたる事を喩を以て心得べし。謂る枯木に火を付るに火、木を焼事速かなり。其火、木に寄合ておきとなれば、何れを火何れを木とも分けられず。木とも云ひつべし。是機法一体を成ずる信なり」
木が燃えている様子を見ていると、どこからが木でどこからが火か、その区別をつけることができません。
そのように、仏と私が離れることなく一体となのであります。
つまるところ、仏と私は一体であり、救いの中にいるということを、よくよく理解することが大切なのであります。
ありがたいものす。
燃える木が、どこから木でどこから火か区別がつかないように、私と仏との間にも区別がないのであります。
私の心には、仏の心が宿っているということです。
そして、周りの人も同じであります。
家族も友人も会社の人も、私と同じように仏の慈悲の光をいただいて、仏の心が宿っているのです。
私の周りには、仏の心を宿した、仏のような人ばかりなのであります。
そのように考えると、嫌いな人の一言も、実は私を極楽浄土へ導くための仏の言葉なのかもしれないと思うこともあるのです。
心が変われば、世の中の見方も変わります。
仏の心を宿し、仏と一体であることの自覚が、よりよい生き方を生み出すのでありましょう。