お彼岸のこころ

境内に咲く白い彼岸花

お彼岸のこころ

『今日彼岸菩提の種をまく日かな』

ということばがあります。

菩提とは悟りという意味でありますが、その種をまく日がお彼岸であります。

あるお説教師さんは、

「花を咲かすのではなく、種をまく日なのだ」

とお話をされていました。

悟りを完成させ、花を咲かすことは、私たち凡夫には到底難しいことであります。

しかし、それに向けた第一歩として、種をまくことはできます。

お彼岸は春と秋と、一年に2回ありますので、その都度心をいれかえて、悟りにむけて努力していくことが大切なのであります。

菩提とは、わが宗においては極楽浄土に生まれたいと願う心のことをいいます。

太陽が沈む西の、そのずっと彼方に極楽浄土があり、そこにいるご先祖様を偲びつつ、自分自身もそこに生まれたいと願うのであります。

悟りにいたるためには、六波羅蜜の修行を行うようにと説かれています。

布施 物惜しみせず分け与える

持戒 悪いことはしない

忍辱 堪え忍ぶこと

精進 一生懸命に励むこと

禅定 落ち着いた心

智慧 ものごとを正しくみる

この六つの修行は、すべての仏が完成させた修行であります。

阿弥陀仏を初め、すべての仏さまはこの修行を行い、成就させたことで、仏となりました。

私たちも、同じ修行をすることによって、仏となることを目指すのであります。

ところが、これらを行じなさいといわれても、できないのが私たち凡夫であります。

布施の行ひとつとっても、ものおしみをし、相手に分け与えることなく、自分のものは自分ひとりのものにしておきたいと思うのが、私たちであります。

こんなことでは、悟りにいたるどころか、極楽浄土に生まれることすらできません。

しかし、阿弥陀仏はそんな私たちを救ってくださるのであります。

阿弥陀仏が修行した六波羅蜜の功徳には、私たちがすべき修行の功徳も備えられています。

つまり、私たちの分の行うべき修行を、代わりに阿弥陀仏が行なってくれているということであります。

私たちは、阿弥陀仏がどれだけ私のことを思ってくれているかということを理解し、阿弥陀仏の心をそのまま感じ取って心に頂くことが大切なのであります。

西山上人は

「法蔵菩薩の因中にして六度の萬行を修し給う御心は真実なりと知るは我等が真実なり」

といいました。

六度とは六波羅蜜の修行のことであります。

阿弥陀仏が法蔵菩薩であった頃、一切衆生を救おうという慈悲の心を起して六度の修行に励みました。

自分の為では無く、救われがたき私たち凡夫を救うために修行をされたのであります。

その阿弥陀仏の心を知ることが、私たちの持つべき心なのであります。

この心をもつことを帰命といい、南無と表現されます。

「南無とは帰命なり、帰命とは即ち願力を信ずる心なり」

帰命とは命を帰すと書くように、自分の肉体どころか命でさえも捧げるようにして仏に付き従うことをいいます。

しかし、西山上人は「人間の重んずる宝命に過ぎたるはなし」といって、命を捧げよといわれてもそれができないのが人間であるとしています。

命を捧げよといわれてもできない私たちを、救おうとするのが阿弥陀仏であり、その慈悲の心を理解し、その力を信じることが帰命することであるというのであります。

そして、善導大師は「南無は即ち是帰命、亦是発願回向の義なり」として、帰命をすることは極楽浄土に生まれたいと願う心を起すことであるといいます。

自分の力では極楽浄土に生まれることができない私たちは、この身このままお任せするしかできません。

極楽浄土に生まれたいと願うことは、阿弥陀仏が私をもれなく救うという慈悲の心を知ることに他ならないのであります。

お彼岸は、極楽上に生まれたいとが願う心を起す日であります。

それは同時に、阿弥陀仏の慈悲の心を知ることでもあります。

仏さまにいつも思われていることを忘れず、一週間を過ごすようにしましょう。

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