山村暮鳥の詩「雲」に、かざらない生き方を学ぶ
明治、大正の時代に活躍した山村暮鳥という詩人がいます。
彼の作品の中に「雲」という詩があります。
「雲」
丘の上で
としよりと
こどもと
うつとりと雲を
ながめてゐる
雲 詩集 (愛蔵版詩集シリーズ) [ 山村暮鳥 ]
「おなじく」
おうい雲よ
いういうと
馬鹿にのんきさうぢやないか
どこまでゆくんだ
ずつと磐城平の方までゆくんか
雲 詩集 (愛蔵版詩集シリーズ) [ 山村暮鳥 ]
このふたつの詩は続けて掲載されているので、「おなじく」とつけられた詩は「雲」という題名になります。
ふたつとも、静かに、ゆっくりと流れていく雲の美しさや、その雄大さを感じさせます。
また、読んでいてとてもわかりやすく、すっと心に入ってくるような、気取ることのない素直な気持ちが表れているようにも思います。
山村暮鳥の詩集『雲』の序文には、このような言葉ができてきます。
詩が書けなくなればなるほど、いよいよ、詩人は詩人になる。
だんだんと詩が下手になるので、自分はうれしくてたまらない。
詩をつくるより田を作れといふ。よい箴言である。けれど、それだけのことである。
善い詩人は詩をかざらず。
まことの農夫は田に溺れず。
雲 詩集 (愛蔵版詩集シリーズ) [ 山村暮鳥 ]
人は学べば学ぶほど、年をとればとるほど、周りに対して自分をよく見せようと、自分を着飾っているのではないでしょうか。
昔、行きつけのラーメン屋さんに行ったときのことです。
いつも、通常のラーメン並盛りばかりを頼むのですが、少し飽きがきていたので、思い切ってトッピング全部のせをしてみたのです。
ラーメンの上には、チャーシュー、ネギ、もやし、煮卵、生たまご、コーン、ほうれん草、キムチ、紅ショウガ、のり、チーズ。
見た目はボリュームがあって華やかなラーメンですが、食べ進めてみると少し残念なことに、いろいろな味が混ざってしまって後悔したことがありました。
結局、通常のラーメンが一番おいしいと思ったのでした。
人の生き方も同じなのかもしれません。
自分を着飾れば着飾るほど、本当のあるべき自分の姿が埋もれていってしまうのではないでしょうか。
西山上人は「白木の聖者」ともいわれるように、常々「白木の念仏」ということを説いておられました。
念仏とは、例えば学問をよく学んで称えるものだとか、戒をたもって称えるだとか、心をしっかりと落ち着かせて称えるだとかいう人がいるが、そうではない。
自分の力では往生することができないと信じ、ただ阿弥陀仏にすがるしか方法はないのだと、自力を離れて、ありのままの自分で称えることを勧めたのです。
これは、自分自身をよくよく省みることを教えているのだと思うのです。
自分の力でどうにもならないのに、自分の力でどうにかしようとするところに、苦しみが生まれます。
学問を学んだ気にならず、戒をたもっている気にならず、心が一定に落ち着いている気になってはいけない。
自分を省みれば省みるほど、自分の至らなさやふがいなさが、よくよく見えてきます。
それをそのまま受入れていくところに、ありのままの姿が現われてくるのです。
自然の流れにまかせて流れゆく雲のように、かざらずに自分でありたいものです。