自分の力の発揮
先日、小学校4年生の授業参観があったので、見にいってきました。
その日は算数の授業したが、見ている私も一緒に問題を解いたりして、なかなか楽しい授業でありました。
息子の様子はというと、私が思っているよりも一生懸命に手を挙げて積極的に発言をしていました。
頑張って授業に取り組んでいる様子を見て、微笑ましく思いました。
いろいろ話を聞いていると、息子はどうも算数は苦手なようでした。
特に計算が苦手で、桁数が増えれば増えるほど答えを出すのに時間がかかるのです。
対して国語は得意なようであります。
小さな頃から本を読むのが好きで、学校に入って文字を習う前から自分で読むようになりました。
今でも新しい本を買うと、すぐに読んでしまいます。
思えば、学校の先生はクラスの子ども全員に、平等に授業をして勉強を教えています。
それにも関わらず、クラスの子どもはみんなそれぞれ得意不得意があります。
算数が得意な子がいれば、国語が得意な子もいます。
運動が得意な子もいれば、苦手な子もいます。
同じように教えていても、それぞれ得意不得意のまったく違う子どもに成長していくのです。
授業参観の子どもの様子を見ながら、まるで私たちと阿弥陀仏の関係と同じであるように感じました。
『観無量寿経』の中では、私たち人間を九種類にわけられます。
仏の教えを守り、悪いことをすることなく、つねに善いことをして生活することができる人。
まあまあできる人。
全く善いことができず、きっかけさえあれば悪いことしかしていない人。
このように九種類にわけられて、それでもすべての人が念仏によって阿弥陀仏に救われることができると説かれているのです。
これは逆からみれば、すべての人は阿弥陀仏によって救われることができますが、100人いたら100人とも性格が違うので、できることもできないことも違ってくるということを表しているのです。
できる人もできない人も、すべて阿弥陀仏の救いの中にあるので、自分ができる限りの力を発揮していくことの重要性があらわれているのであります。
社会に出たら、間違うことなく完璧にこなすことが求められるようになります。
しかし、完璧に何でもできる人はいるのでしょうか。
仕事においても、営業が得意な人がいれば事務職が得意な人もいるし、管理職に勝れている人もいます。
営業も事務も管理職も全部できることが一番いいに決まってます。
でもそんな人はいないでしょう。
また、学校の先生がいれば、お医者さんもいるし、介護の仕事をしている人もいます。
みんな持っている能力が違っていて、それぞれできることを一生懸命にやっているのです。
だれもが、周りの人に支えられて、自分の役目をまっとうしているのであります。
新捨遺和歌集には
「もろともに一味の雨はかかれども松はみどりに藤はむらさき」
という歌が残っています。
雨は平等に降り注ぎますが、松は松でみどり色を増し、藤は藤でむらさき色にあざやかになります。
学校の先生が、クラスの子どもを平等に指導しているように、阿弥陀仏の救いはすべての人に行き届いているのです。
阿弥陀仏のおかげ、皆さんのおかげで生きている私たちは、自分の持てる力を一生懸命に発揮していくしかないのであります。