徳のある人とは
あちこちで、梅の花が咲いているのを見かけます。
白く美しいものや、ピンクであざやかなもの。
長かった冬が終わり、春の訪れを感じさせてくれます。
「梅花五福を開く」
という言葉があります。
梅の花びらが5枚あることにちなみ、梅の花が開くことで5つの福がもたらされるというのです。
5つの福とは
- 長生きすること
- 裕福であること
- 健康であること
- 徳があること
- 天寿を全うすること
なかでも「徳があること」は、人として何よりも大切なことなのではないでしょうか。
「人徳」ということばがあるように、どれだけ勉強ができて知識を持っていても、どれだけお金を持っていても、どれだけ長生きをしていても、「徳のない人」になってしまうと、ただただ虚しいだけのように思います。
修行や善行などによって徳を身につけることを「修徳」といいます。
西山上人の鎮勧用心の中には
「ねむりて一夜をあかすも報仏修徳のうちにあかし
さめて一日を暮らすも弥陀内証のうちに暮らす」
とあります。
阿弥陀仏がまだ法蔵菩薩であったころ、兆載永劫という長い時間をかけて六度の萬行を修し、その報いとして仏と成りました。
そこでは、私たちがこの世で行わなければいけない修行を代わりに行い、私たちが修めるべき徳をおさめてくれています。
報仏とは、阿弥陀仏は六度の修行を成就してその報いとして成った仏であるという意味であり、修徳とは阿弥陀仏が修めた徳であるということです。
内証とは内徳のことであり、慈悲のことであります。
ねむって一夜をあかすことも、仏の功徳が自分の中に満ちており、起きて一日の生活を営んでいくことも、阿弥陀仏の慈悲の中にいるということです。
ねむっている間でも、仏によって私の功徳が積み上げられているというところに、仏の慈悲深さを感じ取ることができるのであります。
またこの言葉には、もう一つの意味がこめられているといわれています。
悟りを得た人を「ブッダ(目覚めた人)」と呼ぶように、阿弥陀仏の救いにあずかる前とあとで「ねむっても」「さめても」と表現しているということです。
忙しい毎日を過ごしている私たちは、なかなか仏の救いに気づくことができません。
しかし、『観無量寿経』に説かれているように、「無縁の慈しみを以て衆生を摂取したもう」のが、阿弥陀仏です。
私たちが仏の存在に気づかず、見向きもしなくても、報仏修徳のうちにあるのです。
そして、仏の慈悲に気づいてみれば、そこには感謝と喜びの生活が開けていくのであります。
ある小学生の男の子の話です。
学校の帰り時間になり、校舎から外へ出たときです。
鼻がむずむずしてきて、思わず大きなくしゃみをしてしまいました。
そして、持っていたティッシュで鼻をかみました。
ところが、そのティッシュを捨てるところが近くにはありません。
家まで持って帰って捨てようかと思いましたが、鼻をかんだティッシュを家まで持っていたくありませんし、ポケットにも入れたくありません。
そこで仕方なく、校庭の脇の草むらに投げ捨てて帰りました。
次の日、帰りの時間になって校舎を出たとき少年は、またくしゃみをしてしまいました。
そして同じように鼻をかみ、捨てるところがないので、昨日と同じ所に捨てようと、校舎の脇の草むらに向かいました。
すると、昨日捨てたはずのティッシュが、そこにはありませんでした。
少年は、風か何かで飛んでいったのだろうと思っただけで、同じようにしてティッシュを捨てて帰ったのです。
また次の日、校舎を出た少年は、ふと気になって昨日ティッシュを捨てた所へ向かいました。
すると不思議なことに、捨てたはずのティッシュがなかったのです。
きっとまた、どこかに飛んでいったのだろうというくらいにしか思わず、そのまま帰って行きました。
それからしばらくしたある日のことです。
その日は友達と話し込んでしまい、いつもよりも帰る時間が遅くなってしまいました。
校舎を出ると、校長先生と出会います。軍手をはめて、ゴミ袋を持っています。
気になって少年は、校長先生に何をしているのか聞きました。
すると校長先生が言いました。
「みんなが気持ちよく学校で過ごせるように、ゴミ拾いをしてるんだよ」
そこで少年は気がつきました。
「自分が捨てたティッシュも、校長先生が拾ってくれていたんだ」
それ以来少年は、ときどき校長先生と一緒にゴミ拾いをするようになったというのであります。
少年にとって、ゴミを校庭に捨てても捨てなくても、学校での生活には何ら変わりはないでしょう。
しかし、本当は自分がしなければいけなかったことを、代わりに誰かがしてくれていたことに気がついたことで、学校生活を送っていく心が変わったのであります。
私たちが修めるべき徳は、この「気づき」にあるのではないでしょうか。
私の知らないところで、私のために苦労し、働いてくれている人がいるということ。
これに気がつくことが、本当に徳のある人なのかもしれないと思うのであります。