殺生せずには生きられない

殺生せずには生きられない

夏が近づき、気温が高くなってくると、必然的に蚊が飛ぶようになってきます。

庭で草抜きをしていると、耳元にブンブンと音を立てながら、何匹もの蚊が寄ってきます。

片方の手で払いながら、片方の手で草を抜いていきますが、これではなかなか効率もあがりません。

蚊取り線香を点けたところで、効いているのか効いていないのか。

作業が終わったときには、体中が蚊取り線香臭くなっています。

一番困るのが食事中です。

これから食べようと思っている食事の上に飛ばれると、どうしても不快な気持ちになってしまいます。

食事中に飛んでいた蚊が腕にとまったので、私はすかさずパチンとたたきました。

蚊は腕の上でぺしゃんこにつぶれています。

そのときにふと、ひとつの命を奪ってしまったことに気がつきました。

もし、自分が道を歩いているときに、何か大きなものに押しつぶされてしまったらどうだろうか。

腕の上の蚊と、自分自身を重ね合わせてしまいました。

仏教では「不殺生」といって、生き物を殺してはいけないと戒められています。

他人に教えて殺さしめることも、かたく禁じられています。

初期の仏教では、人を殺せば教団を追放されますが、虫などを殺したときには謝罪すればその罪は許されるものでした。

日本に伝わっている大乗仏教では、人も虫も同じであり、一切の生きとし生けるものを殺すことは、教団追放の罪にあたるとしています。

教団を追放されるということは、涅槃という悟りの境地に至ることができなくなるということで、一番重い罪になるのです。

私は教団追放の罪を作り、それでも許されながら、僧侶として生活させてもらっているのだと、改めて考えさせられます。

そもそも私たちは、生き物を殺すことなく生きていくことができません。

肉も魚も食べなければ生きていけないのです。

食事のためには石鹸で手を洗いますが、手には目に見えない微生物がびっしりと付いています。

手を洗うことによって数え切れない程の生き物を殺しているということです。

にんじんや大根などの野菜も植物も、自分で養分をとって生長している、命あるものです。

とうてい、生き物を殺さずに生きるという生活は送れないのであります。

お釈迦様が「不殺生」を禁じたのは、きっと他に目的があったのではないでしょうか。

それは、「不殺生」という手段を通じて「慈悲」の心を育んでいくことを目的としていたのではないかと思うのであります。

仏教の修行は、心を清めていくことにあります。

殺生せずに生きることができないのなら、それはそれとして受け止めて、慈悲の心で過ごしていくしか道はないのであります。

人を大切にし、小さな命にも哀れみをもち、たった一口の食事でも丁寧に頂く。

このような生き方が、もしかしたら現代社会に於ける「不殺生」の生き方なのではないかと思うのであります。

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