「我ヲ捨テ偏ニ他ノ為ニシテ私ヲ離ル也」
日本の仏教教団は多種多様にあって、それぞれの教義に基づいてその宗派が建てられています。
それは今も昔も変わらず、鎌倉時代にも、法相宗、三論宗、天台宗、真言宗、浄土宗など、それぞれよりどころとする経典に基づいて宗派がたてられていました。
そんななか、真言律宗の僧侶で、奈良の西大寺の中興の祖とされている叡尊が、弟子に対して次の様な言葉を残しています。
「法相、三論、天台、華厳、または顕教や密教といった仏教の教えのさまざまな経典はあるけれども、本当にわかればたった1つの意味になる」
といい、「つまりは」としたうえで
「我ヲ捨テ偏ニ他ノ為ニシテ私ヲ離ル也」
というのです。
そして叡尊は、「この結論を超えることはないですよ」と、弟子たちに言い聞かせているというのであります。
いろいろな宗派があって、それぞれが自分のよさを強調し、時には他の宗派を敵対しすることさえあります。
しかし、どんな宗派もお釈迦様にはじまる仏教の教えは、最終的にはひとつの意味に集約できるのです。
それが「我を捨て」て「私を離る」ことであり、いわゆる「諸法無我」の体現であります。
我を捨てることは極めて難しいことであります。
できることなら自分のために行動したいし、自分の利益になることだけをやっていきたい。
それどころか、自分の利益のためになら、他人を陥れることもままならない、そういうことをできてしまうのが、私たち人間であります。
今すぐにラクに暮らしたい、今すぐにカネがほしい、そうやって闇バイトに手をそめ、他者を傷つけるのが当たり前の世の中になってしまってはいないでしょうか。
我を捨てて他人のためにせっせと働くことが出来る人を仏といい、自分の私利私欲を捨てて他人のためにせっせと働く道を、仏道といいます。
仏になることはできないかもしれない、けれども「仏の様な人」といわれるような存在になれるように、仏教の道を進んでいきたいと思います。