『死んだら終わるのかそれとも生まれて往くのか』
「死んだら終わり」でしょうか?
なかなか現代社会において、生まれ変わりというものは信じがたいかもしれません。
インドでは昔から、すべての生き物は生まれては死に、死んでは生まれるという「輪廻」を繰り返しているといわれています。
もちろん、仏教でもその考え方が取り入れられました。
地獄、餓鬼、畜生、人、天の五つの世界、あるいはこれに修羅を足した六つの世界を、私たちは行ったり来たりしています。
そして、現世に於いて善いことをすればいい世界に生まれ変わり、悪いことをすれば悪い世界に落ちると考えられています。
天の世界といえども、輪廻という苦しみの中の一つであります。
天に生まれてもやがては寿命が尽きて、次の世界に生まれ変わるのです。
お釈迦様は、この輪廻から抜け出したいと考えました。
悪いことをして地獄に生まれたくないと思うのはもちろんのことですが、善いことをして天の世界に生まれ変わりたいとも思っていなかったのであります。
このような輪廻を生み出すもとを「業(ごう)」といいます。
そしてこの「業」の根源は、煩悩であります。
つまりお釈迦様は、自分自身の煩悩を打ち消すことによって業を消し去り、その結果として輪廻をとめることに成功したのです。
このようにして輪廻から抜け出した状態を涅槃といい、お釈迦様は二度と生まれ変わらない永遠の安楽を手に入れたのであります。
仏教の目的は、輪廻をとめて次の世界に生まれない真の安楽である涅槃に至る事です。
お釈迦様の教えに従って修行し、煩悩を打ち消し、業を消し去ることで、二度と生まれ変わらない真の安楽が訪れるのです。
しかし、それから時代が下がって現代を生きる私たちには、生きている間に煩悩を打ち消すことができません。
それどころか、次の世界で今よりもいい世界に生まれ変わるために、いい行いをして善業を積むことすらできません。
きっとこのままでは、地獄に落ちてしまうでしょう。
しかし、そんな私たちを救い出してくれるのが、阿弥陀仏であります。
阿弥陀仏は私たちの死後、極楽浄土から迎えに来てくれて、そして極楽浄土へと連れて行ってくれます。
そして、極楽浄土へと生まれ変わるのです。
極楽浄土へと「往き生まれる」ので、往生するというのです。
そして、現世ではできなかった修行を極楽浄土で行い、そこで煩悩を打ち消して、涅槃へと至るのであります。
つまり私たちに取って、念仏によって極楽浄土に往生することこそが、輪廻という苦しみの連鎖からの解脱なのであります。
このような死後の世界を信じることは、なかなか難しいかもしれません。
しかし、死後の世界を信じることが、今の私の行いを変える事になることも事実であります。
いいところに生まれたいからいいことをして、悪い所に生まれたくないから悪いことをやめるのです。
善いことをして悪いことをやめるのは、人間が人間として生きていくためには当たり前の事であり、とても大切な事であります。
こうした当たり前の事を行っていくきっかけとしても、輪廻という考え方は必要ではないかと思うのです。
逆にいえば「人生一度きり、どうせ死んだら終わりだ」という考えは、人生を自分の好きなように生きたいという欲望を生み出し、他者に迷惑をかけることを顧みず、自分勝手な振る舞いをしてしまう要因になると思うのであります。
「死んだら終わるのか」
「それとも生まれて往くのか」
この二つの考え方が、今を生きる私の行動そのものに結びついているのであります。