「慈経」は、日本ではあまりなじみのないお経かもしれませんが、タイやスリランカなど、東南アジアなどでは重要視されているお経です。
「慈しみの経」ともいわれ、他者を慈しむ心を持つことを説いています。
短くてわかりやすく、味わい深いお経ですので、全文を紹介します。
『慈経』慈しみの経
『慈経』
究極の理想に通じた人が、この平安の境地に達してなすべきことは、次のとおりである。能力あり、直く、正しく、ことばやさしく、柔和で、思い上がることのない者であらねばならぬ。
足ることを知り、わずかの食物で暮らし、雑務少なく、生活もまた簡素であり、諸々の感官が静まり、聡明で、高ぶることなく、諸々のひとの家で貪ることがない。
他の識者の非難を受けるような下劣な行いを、決してしてはならない。一切の生きとし生けるものは、幸福であれ、安穏であれ、安楽であれ。
いかなる生物生類であっても、怯えているものでも強剛なものでも、悉く、長いものでも、大きなものでも、中くらいのものでも、短いものでも、微細のものでも、粗大なものでも、
目に見えるものでも、見えないものでも、遠くに住むものでも、近くに住むものでも、すでに生まれたものでも、これから生まれようと欲するものでも、一切の生きとし生けるものは、幸せであれ。
何ぴとも他人を欺いてはならない。たといどこにあっても他人を軽んじてはならない。悩まそうとして怒りの想いをいだいて互いに他人に苦痛を与えることを望んではならない。
あたかも、母が己が独り子を命を賭けても護るように、そのように一切の生きとし生けるものどもに対しても、無量の慈しみのこころを起こすべし。
また全世界に対して無量の慈しみの意を起こすべし。
上に、下に、また横に、障害なく、怨みなく敵意なき慈しみを行うべし。立ちつつも、歩みつつも、坐しつつも、臥しつつも、眠らないでいる限りは、この慈しみの心づかいをしっかりとたもて。
この世では、この状態を崇高な境地と呼ぶ。諸々の邪まな見解にとらわれず、戒を保ち、見るはたらきを具えて、諸々の欲望に関する貪りを除いた人は、決して再び母胎に宿ることがないであろう。
『慈経』(スッタニパータより)
慈しみの心
ブッダが説いたたくさんの教えの中に「慈しみの経」(慈経)というものがあります。日本ではあまりなじみのないお経ですが、タイやスリランカなど東南アジアでは特に重要視されているお経です。
ここには、悟りを目指す人が持つべき大切な心が説かれています。
出家をした人、あるいは出家をしない人であっても、生きていくうえで自分の幸せを求めています。歳をとること、病にかかること、死ぬこと、そして生きることそのものが苦しみであると感じ、その苦しみから解放されるための教えが仏教です。
そのために、自分の心を整え、道を切り開いていかなければいけません。
しかし、だからと言って自分のことばかり考えていてはいけません。他者に対して慈しみの心を持たなければいけません。
慈しみの心とは、思いやりの心です。つまり、誰に対しても思いやりの心を忘れてはいけないのです。
「我」を捨てること
他者を思いやり、慈しみの心を持つことの裏には、「自分が」という「我」を捨てることが求められています。
「自分が幸せになりたい」という思いばかりが大きくなると、自分の目的ばかりに目が向いてしまいます。他者を差し置いて自分の「我」を押し通してしまうと、そこから争いが生まれてしまいます。他者との争いは苦しみの元です。
だから「自分が」という自分勝手な思いを捨てるために、「他人のために」と他者の幸せを祈るのです。
言い換えれば、他者の幸せを願うことによって自分の「我」を捨てて、悟りへと進んでいくのです。
それが結果として、自分自身の幸せにつながっていることを、よく知らなければいけません。
「おかげ」の中で生きている
もう少し掘り下げていくと、私たちはたくさんの「おかげさま」の中で生きていることを忘れてはいけません。
私という存在は、たくさんの要素や物質などによって構成されていて、常に変化し続けている存在です。
体は新陳代謝をし続け、次から次へと古い細胞が新しい細胞へと生まれ変わっています。これは、人の肉体は常に変化し続けていることの証明です。
また、心は一瞬一刹那のうちに次から次へと変化しています。今うれしい気持ちが起こったかと思えば、次の瞬間には腹を立て、またすぐに貪りの心を起こし、悲しみに暮れるといった、瞬間瞬間に絶えず変化し続けています。
さらに、食事は毎食違う物を食べています。例えば毎食お米を食べているにしても、ひとつぶひとつぶは違うお米ですし、野菜にしたって例えばお昼に食べたニンジンと晩に食べたニンジンでは、同じニンジンでも食べる部分が違います。毎日毎食食事をしていても、体に取り入れているものが違えば体内の働きが変わり、体にはその都度違う変化がもたらされます。
人間関係においても、毎日違う人と出会い、その時々で違う話をすると思います。昨日と今日で同じ人と出会い、同じような話をしていても、ことばの一字一句まで同じということはないでしょう。またその時の天気や場所、その時の気分など、その時の周りの環境によって話の受け取り方も違ってきます。
こうしたたくさんの要素が複雑に絡み合って、自分というものが存在しているのです。逆に言えば、これらの要素が何一つでもかければ自分は存在しないということになるのです。肉体、心、食事、人間関係など、様々な要因が複雑に絡み合って構成されることによって、はじめて「自分」という存在を認識することができるのです。
これらのたくさんの要因があるからこそ、自分がこの場所にいることができる。肉体があり、心があり、食事があり、人間関係があり、世界のすべてがある「おかげ」で、自分は存在していることを忘れてはいけません。
まとめ
自分が幸せになりたいなら、「自分が」という「我」を捨てなければいけません。
「我を捨てる」というのは、「おかげさま」に気づくことでもあります。
そして様々な要素のおかげによって自分が構成されているということは、他者の幸せが自分の幸せにもつながっているということになるのです。
他者に対しておもいやりの心を持ち、積極的に世界の生きとし生けるものすべてを慈しむ心を育てるようにしましょう。