ありのままの自分
「自分は○○な人だ」と考えた時、この○○の中には何が入りますか?
「明るい人」「いつも元気な人」「器用な人」などポジティブな言葉が入る人もいれば、「ダメな人」「魅力がない人」「つまらない人」などネガティブな言葉が入る人もいるのではないでしょうか。
この時ネガティブな言葉が思いつく人は、気をつけなければずるずると精神が落ち込んでものごとを悲観的に見る傾向があるといわれています。
近年「生きづらさ」という言葉をよく聞きます。
どんなに仕事を頑張っても認めてもらえなかったり、人間関係がうまくいかなかったり、経済的理由で将来が不安になったり……。
人それぞれ考え方や感じ方は違うでしょうが、そんな「生きづらさ」を感じる理由に「べき論」というものが一つの原因にあるように思います。
「べき論」は「こうある〝べき〟」という理想を強く主張する論調のことです。
例えば「大人は仕事をすべき」とか「子育てはこうすべき」「人間関係はこうあるべき」とかで、これには意見の押し付けのように感じる時もあります。
こういう「べき論」が、生きづらさを生み出しているように感じるのであります。
そして、これに対応しきれない人が「自分はダメな人だ」というネガティブな思想に陥りやすいとされているのです。
これを打開する方法が「ありのまま」です。
「ダメでもいい」「魅力がなくてもいい」「つまらなくてもいい」と自分の感情をありのまま受け入れることで、心が安定して幸せを感じるようになっていきます。
西山上人は「白木の念仏」という言葉を残されています。何色にも染まらないその身そのままのお念仏ということです。
やまがつが
白木の合子そのままに
うるし付けねば
はげ色もなし
西山上人
「やまがつ」とは山の仕事を生業とする人のことで、木こりなどのことをいいます。「合子(ごうし)」は蓋付きの入れ物のことで、ここではお弁当箱のようなモノをいいます。
漆などで色を塗ったり飾り付けをしたりした入れ物は、いつかは色が落ちてはげてしまうこともあるでしょう。しかし、木こりのお弁当箱は白木そのままであり、だから色がおちてはげることもありません。
そのように、下手に自分自身を着飾ろうとしていても、いつかはその化けの皮が剥がれてくるものです。着飾ることなく、ありのままの自分でいることを教えているのです。
それはお念仏も同じであります。
お念仏をする時、「何回以上すべき」とか「しっかり心を落ち着けて」と条件を付けようとしてしまいがちです。しかし、私たちの往生は自分の力によらず阿弥陀仏の力によるものです。
つまり、お念仏の数が少なかろうが心が乱れていようが、阿弥陀仏によって必ず救われるということです。どんな心であっても、どんな自分であっても、ありのままの自分でお念仏に励めばいいのです。
それを西山上人は「白木の念仏」と説きました。自分自身、ありのままのお念仏です。
自分を卑下してネガティブな感情が湧き上がってくることもありますが、そういうときに「ありのまま、そのままでいいよ」と阿弥陀仏に言ってもらっていると思うと、なんだかホッとします。
世の中のさまざまな考えに惑わされることなく、ありのままの自分として、自分の道をしっかりと歩んでいきたいものですね。
供養なら、和歌山かんどり本山総持寺へ
私たちは、この一瞬一瞬を「独り」で生きているわけではありません。常に、仏さまやご先祖さまといった大いなる存在の見守りと救いの中にあります。
遥か昔から連綿と続く命のリレーの中で、無数のご縁とご尽力によって、私たちは今ここにいます。平穏無事に今日も生活できるのは、すべてその大きな力のお陰です。この事実に気づくとき、私たちは自然と感謝の念を抱かずにはいられません。
この感謝の気持を行動に表したのが、「供養」です。
「供養」とは、このいただいた命への感謝であり、ご先祖様や故人様への報恩の心を形にする行いです。
和歌山市に位置するかんどり本山総持寺は、「いつでもお参りができるお寺」として、心の通う供養を大切にしています。仏さまやご先祖さま、故人を偲ぶ場所は、いつでも気軽に訪れられる場所であってほしい。そんな願いを形にしたのが当山です。
特に近年ニーズが高まるお納骨や永代供養についても、安心して任せていただけます。永代にわたる供養と管理を通じて、ご遺族様の負担を軽減し、「近いからいつでも会いに行ける」という安心感を提供します。
ご供養は、命をいただいて今を生きていることに感謝をし、自分自身の心も清める大切な行いです。しあわせな未来を生きていくために、ご供養は、歴史と安らぎに満ちたかんどり本山総持寺へ、ぜひご相談ください。