ドラえもんのどこでもドア

ドラえもんのどこでもドア

他人と接する時に、大切にしなければいけない心として、「四無量心」というものが説かれています。

慈、悲、喜、捨という四つの心でありますが、仏様や菩薩様が持つ絶対の境地として、尊重されております。

慈無量心は、慈しみの心であり、誰に対しても楽をあたえようとする心。

悲無量心は、哀れみの心によって、相手の悩み苦しみを除き去ってあげること。

喜無量心は、相手の喜びに妬むことなく、自分のこととして一緒に喜ぶこと。

捨無量心は、私情を捨てて、だれに対してもわけへだてることなく、同じように接すること。

この四つの心で、他者を悟りに導きます。

お釈迦様は

 また全世界に対して無量の慈しみの意を起こすべし。上に、下に、また横に、障害なく怨みなく敵意なき慈しみを行うべし。

ブッダのことば スッタニパータ (ワイド版岩波文庫) [ 中村元(インド哲学) ]

として、誰に対しても無量の慈しみの心を持つことを教えています。

自分の幸せだけを願っていても、それでは本当の幸せにはいたらないのでありましょう。

他人の幸せが、自分の幸せ、ひいては涅槃という真の安楽へとつながるのであります。

もちろん、人間社会においても大切なもので、お互いの関係を保つためにはなくてはならない教えであります。

慈,悲,喜,また捨なる解脱を時に応じて修しつつ

あらゆる世界に違背せず

独り行ぜよ,犀角の如く

ブッダのことば スッタニパータ (ワイド版岩波文庫) [ 中村元(インド哲学) ]

慈悲喜捨の四無量心を行ずることは、あらゆる世界において自然の法則に背くことのない行いであります。

つまり、四無量心を行ずることが、お互いの人間関係をつくり、世界を保っていくことになるのです。

それを、犀の角の如く、他者に惑わされることなく努力して行じ続けることを説いています。

曹洞宗の国際布教師である、ポーランド出身のシュプナル法純さんという方が、中外日報で仏教英語講座というものを連載されています。

仏教の教えを、英語を通して教えてくれる面白い記事なのですが、そこに四無量心が英語で紹介されていました。

不思議なもので、英語に訳すことで、かえってよく理解ができるのであります。

シュプナル法純さんによりますと、

慈無量心「loving kindness(愛情のあるやさしさ)」

悲無量心「compassion(同情、あわれみ)」

喜無量心「empathetic joy(共感できる喜び)」

捨無量心「equanimity(心の平静、おちつき)」

という英語に訳されるそうです。

いろんな仏教書や解説書を読むよりも、至って簡潔でわかりやすいものであると、感動いたしました。

さらにシュプナル法純さんは、一般的に四無量心が「four immeasurables」と訳されるところ、「アニメ・ドラえもんの秘密道具の名を借りて、「四無量心」をanywhere door「どこでもドア」と英訳したい」と語っています。

なぜならば四無量心を啓けば、差別なく誰でも利することができ、誰でも迎え入れることもできる「どこでもドア」に通じるからだ

シュプナル法純

仏さまは誰一人としてわけへだてることなく接していたので、そこに多くの人が集まり、迎え入れられて、そして救われていったのでありましょう。

ドラえもんといえば、その主人公であるのび太くんは、見ていていつもとても心の優しい子だと思うのであります。

一見すると、いつもいじめられ、いつも叱られ、いつも泣いてばかりいるかわいそうな子どものようにも思います。

しかし、相手がいじめっ子であっても困っていたときには本気で心配しています。

自ら悪口を言って相手をおとしめようとするようなことはしません。

誰に対しても平等に接しているように思います。

もちろん、中には悪いことを考え、秘密道具をいたずらに使うこともあります。しかし、そういうときに限って失敗をします。

徹底的に悪いことをやりきれないのは、のび太くんの優しい性格ゆえなのではないかと思うのであります。

映画になりますと、人のためにと一生懸命になれるのび太くんの性格の良さが特によく表れています。

だからでしょうか。いつものび太くんのまわりには、たくさんの人が集まってきているように思うのです。

対して、自分はどうかと考えてみます。

考えれば考えるほど、自分の利益のことしか考えず、人に喜んでもらおうとか助けてあげようとか、そういった気持ちはあまり持っていないのではないかと思うのであります。

人に偉そうに言っておきながら、自分ができていないことをつくづく感じさせられます。

仏教学者の片山一良さんは、この四無量心について

四無量心は勝れた禅定の実践であり、他者の幸福を願う最上の教えである。

この実践は時や場所を選ばない。いつでも、どこでも、だれでも、ただちに可能なものである

片山一良

といっておられます。

いつでも、どこでも、だれでも、ただちに可能なものであるならば、今すぐにでも実践しなければいけないなと、改めて思うのであります。

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