稚魚の放流と命の平等

稚魚の放流と命の平等

先日、地元の幼稚園、小学校で、稚魚の放流体験が行われました。

漁港へと足を運び、稚魚を海へ放ちます。

放たれたのは真鯛の稚魚で、子どもたちは一人それぞれ7匹ほどの稚魚を漁師さんから受け取り、海へと放流いたしました。

地元は昔から漁業が盛んで、特にそこで獲れる真鯛は見たも味も絶品であります。

ところが、自然界は弱肉強食の世界であります。

自然に産卵し、孵化をしても、その後には大きな魚に食べられてしまい、大人に育つ魚はごくわずかといわれています。

そのため、人工的にある程度の大きさまで育ててから放流することで、海の魚を増やし、漁業を守っているのです。

放流した稚魚が大きくなって、また帰ってきてくれることを願って、子どもたちは声をかけながら放流の体験をしていました。

貴重な体験に子どもたちは、目を輝かせた様子で取り組んでいました。

その様子を近くで見ながら、金子みすゞさんの詩を思い出しました。

『大漁』

朝焼小焼(あさやけこやけ)だ

大漁だ。

大羽鰮(おおばいわし)の

大漁だ。

浜はまつりの

ようだけど

海のなかでは

何万の

鰮のとむらい

するだろう。

金子みすゞ名詩集 [ 金子みすゞ ]

豊漁のよろこびにわく人のにぎやかなこえが聞こえる浜と、暗い海の底で行われる弔いと、対極の様子が画かれています。

こうした金子みすゞさんの物を見る視点には、惚れ惚れするものがあります。

海の底という見えない世界の様子を思い描くことで、命の大切さ、平等さを考えさせられます。

お釈迦様のエピソードに、このようなものがあります。

まだお釈迦様が子どもの頃のことであります。

国の豊作を願う農耕祭の日、農夫が畑を耕していました。

地中から掘り起こされた土の中から、小さな虫が出てきました。

すると、どこからか鳥が飛んできて、その虫を食べて飛んでいきました。

さらに今度は、その鳥めがけて大きな鳥が襲いかかってきたのであります。

お釈迦様はその一連の様子を見て、ふさぎこんでしまったといわれています。

一日中物思いにふけり、なぜ生き物はお互いに殺し合うのかと、命のはかなさを感じ取ったのであります。

お釈迦様の言葉に、

すべての者は暴力におびえ、すべての者は死をおそれる。已が身をひきくらべて、殺してはならぬ。殺さしめてはならぬ。

すべての者は暴力におびえる。すべての生きものにとって生命は愛しい。已が身にひきくらべて、殺してはならぬ。殺さしめてはならぬ。

『ダンマパダ』129,130

とあります。

命の大切さをつねに考え、つねに説いていたのであります。

また西山上人は、「衆生の重んずる宝、命に過ぎたるはなし」と言葉を残しておられます。

生きとし生けるものにとって、命ほど大切なものはないのであります。

わが宗では「南無阿弥陀仏」をお唱えしますが、「南無」とは「帰命」のことであります。

一般的に帰命とは命を仏さまに捧げ、自分のすべてを仏さまに任せるということです。

しかし、西山上人は「衆生の重んずる宝、命に過ぎたるはなし」と、命を仏さまに捧げなさいといわれてもできないのが私たち人間であるというのです。

そして、命のすべてを捧げよといわれてもできない私でさえ、仏さまは救ってくださるのだと知ることが帰命であるというのであります。

「今命を惜しみけるものを摂取し給いける仏ぞと心得る所を今の信心とは云うなり」

として、どうしても自分が一番可愛く、自分の命が一番惜しいと思う私たちを救ってくださるのが阿弥陀仏である、と心得るところが、わが宗の信心であるというのであります。

自分の命が一番惜しいと思うのは、見方を変えれば他の人も同じように思っているということであります。

みんな、自分の命が一番大切なのです。だからこそ、すべての命は大切にしなければいけないのであります。

子どもたちにも、大切な命を頂いて生きているということを、稚魚の放流という体験を通して知ってもらえたらと、思ったのであります。

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