きれいな服を着るということ
こんなお話があります。
その昔、あるところに男がひとりで住んでいました。
男の暮らしは裕福とはいえず、毎日仕事をして働いて、その日をどうにか食べていくことだけで精一杯です。
そんな男がいよいよお嫁さんをもらうことになりました。
その日お嫁さんは、荷物を持ってお母さんに連れられてやってきました。
男はどうぞどうぞとお嫁さんを招き入れると、持ってきた荷物を運び込みました。
バタバタと慌ただしくしている横で、お嫁さんとお母さんは名残惜しそうに話をしている様子です。
聞き耳を立てていたわけではありませんが、ふとお母さんの声が聞こえてきました。
「いいかい、いいものを着て過ごすんだよ。それからしっかりといいものを食べて、そしていい生活をするんだよ」
それを聞いた男は驚いてしまいました。
いいものを着て、いいものを食べて、いい生活をしなさいといわれても、うちは貧しくてその日暮らしをするので精一杯。
きれいな服も、豪華な食べ物も、裕福な生活もさせてやることができない。
もし「もっといいものが着たい。もっとおいしいものが食べたい」とわがままを言われたらどうしようか。
なんという女性をお嫁さんにもらってしまったのだろう。
今さらどうすることもできず、とうとうふたりの生活がはじまりました。
しかし、その後のお嫁さんの行動はとても慎ましいものでした。
着るものは持ってきた何枚かを交代で着回し、破れたり痛んだところはその都度修理しながら着ていました。
食事は男が食べるものと同じ質素なものを食べ、これまでの食生活と何もかわりませんでした。
毎日仕事をして忙しく、その日暮らしで精一杯でしたが、腹をたてて不平不満を言うこともなければ、あれがほしいこれが欲しいと要求するようなこともありません。
それどころか、男よりも一生懸命に働くのです。
しばらくたったある日、男は聞きました。
「実はおまえがうちに来たとき、お母さんと話をしているのが聞こえたんだ。お母さんは、いいものを着て、いいものを食べて、いい生活をしなさいと言った。でもおまえは、何枚かの着物を着回し、オレと同じ質素なものを食べ、何も欲しがったりせずに貧しい生活をしている。あれはいったいどういう訳だったのか」
するとお嫁さんは、そのことについて説明してくれました。
いいものを着るというのは、服やモノを大切に扱いなさいということ。
愛着をもって大切に服を着ていたら、どんなに古くなってもどんなに汚れても、私にとっては「いいもの」になる。
いいものを食べるというのは、感謝して食べなさいということ。
お肉やお菓子など贅沢な食べものがいいものというわけではない。一食一食を感謝して大切にいただけば、それは「いいもの」「いい食事」になる。
いい生活をするというのは、しっかり働いて毎日一生懸命に過ごしなさいということ。
お金があって裕福なのがいい生活というわけではない。
一生懸命に過ごして今あるものに満足し、悦んで生活することができれば、それは「いい生活」になるのだ。
男はこのように聞くと、自分のこれまでの考えを改めました。
そうしてふたりは、「いいもの」を着て「いいもの」を食べて「いい生活」をして、これまでと変わらない暮らしを続けていったというのでした。
「いいもの」とは一体なんなのでしょうか。
深く考えさせられるお話です。
阿弥陀仏には48の願がありますが、その中の第38願には、もし極楽浄土に生まれた人が衣服を欲しいと願えば、思いのままに手に入るようにしましょう、そしてそれは汚れることなく修理することもない清らかなものであるとしています。
思いのままに手に入るというと、高級なものやきらびやかなものを想像してしまいますが、極楽浄土は私たちの常識を越えた考えを持つ仏が住む世界です。
仏さまが高級な服やきらびやかな服を欲しいと望むでしょうか。
そうではなく、きっとその身の丈に合うもので満足するでしょう。
私たち凡夫の考えを越えたところに、本当の「いいもの」があるのかもしれません。