「道心の中に衣食あり、衣食の中に道心あり」
天台宗の祖である伝教大師最澄のことばです。
「道心の中に衣食あり、衣食の中に道心なし」
道心とは仏教を学び実践し、悟りに向かう心のこと。
言い換えれば、目標に向かって努力していく心のことをいいます。
衣食は、衣食住のことで、日常の生活環境のことです。
悟りを求めて努力を続けていく向上心があれば、その目的を達成するために必要な生活はおのずとついてきます。
反対に、いくら生活環境に恵まれていても、その生活からは仏道を求めて自分を高めようとする心は起きてこないのです。
それは、たとえば仕事でも学問でも、何をするに於いても、明確な目標とそれに向けて突き進んでいく心の必要性を説いているのです。
目標に向かってただひたすら突き進んでいく心があるなら、衣食住の生活環境に恵まれていなくても、それを不便に思うことはない。
今の生活を維持し続けるどころか、もっといいものが食べたい、いいものを着たい、いいところに遊びに行きたい、もっといい生活をしたいなど、そういう生活環境を整えることを中心に物事を考えていると、いつまでたっても目的が達成できないどころか、悩み苦しみは増幅していく一方であります。
今を生きる私たちは、物質的には大変豊かになりました。
モノであふれていて、欲しいものはインターネットで簡単に何でも手に入るようになりました。
しかし、日本人の幸福度は世界的に見ても大変低く、幸せを感じる人が少なくなってきているといわれています。
そこには、モノを持つことや手に入れることなど、モノの中から幸せを見つけ出そうとしているからではないでしょうか。
もう少し踏み込んでいえば、物価が上がる割には給料が増えず、経済的に厳しいと感じる事が多くなり、ちょっとでもカネがほしい、ちょっとでも豊に生活したいと思って、カネを中心に考えているのが、現代の私たちです。
実は、モノを手に入れても幸せになるとは限らない、モノを手に入れても、次から次へと欲しくなってしまうということは科学的にも証明されていることです。
それにも関わらず、カネが欲しい、モノが欲しいと貪っているのが、私たち愚かな人間であります。
カネ中心、モノ中心で生活をしていて、人間として本当にいい生き方をしていくことができるでしょうか。
最澄は、そうした貪りの心を起している私たちに、それではだめだと厳しく教えられたのだと思います。
確かに、生きていく上でカネもモノもある程度は必要です。
しかし、それ以上に、今自分が何をすべきなのか、何を目標としているのか。
それをよく考えることで、自分にどれだけのモノが本当に必要なのかが見えてくるのではないでしょうか。