両目のない猫
日経新聞に「こころの玉手箱」というコーナーがあります。
いつもいろんな人のコラムを読むことができるので、楽しみにしています。
先日ここに、宗教哲学者の鎌田東二さんの記事が連載されました。
その中で、鎌田さんが飼っていた猫について紹介されていました。
その猫は両目のない猫で、名前はココというそうです。
1995年、鎌田さんの奥様がゴミ捨て場に捨てられていた子猫を見つけ、見かねて家に連れて帰りました。
拾ってきた4匹の子猫は全員目が悪かったそうです。
獣医さんに見せると、4匹とも育ちませんと言われ、そのうち2匹の雄猫は早くに亡くなってしまいました。
残った2匹はどちらもメスの三毛猫でありました。
1匹は知り合いにもらわれていき、残った1匹がココであります。
ココには両目がありません。だから家で過ごす他はありませんでした。
そんなココに対して鎌田さんは、「私たちにどれほどの優しさと幸せを教え、与えてくれたか。思い出すたびに、胸が熱くなり、感謝と愛でいっぱいになる」といいます。
そして、このように語っています。
彼女は普通の猫のように警戒したり、威嚇したり、ケンカをしたりすることが一度もなかった。物静かで、いつも耳を傾け、世界に向かって2本のアンテナを立てているかのようだった。繊細で、穏やかで、柔らかかった。
よその猫がやって来て、ココを見て唸ったり、威嚇したりしても、微塵も警戒心を持たずに、すりすりとすり寄り、やがてはいつしか肌を合わせてすやすやと寝ているのだった。
こころの玉手箱
猫というのはとても警戒心が強いイメージがあります。
私も実家で猫を飼っていたときがありますが、なかなかなついてくれなかったことを思い出します。
それどころか、外へ出て行っては毎日のように誰かとケンカしていたようで、よく鳴き声が聞こえてきていたように思います。
ココには、まったくそういうことがなかったようであります。
私は始め、それは両目がないからだと思っていました。
目がなくて、周りの様子を何一つ見ることができないから、警戒心もなにもないのだと思いました。
しかし、よく考えてみると、そういうわけではないのかもしれないと思うのです。
先日のことであります。
次の日が朝早くから忙しいので、早い目に寝てしまおうと身支度を調え、いつもより一時間ほど早く布団に入りました。
ところが、いつもと違う時間のせいか、なかなか寝付くことができません。
目をつぶっていたら、そのうち寝てしまうだろうと思っていたのですが、それでも一向に眠たくなってきません。
寝なければと思えば思うほど、目がさえてくるような気がします。
かといって、起きる訳にもいかず、とりあえずそのまま目をつぶり続けることにしました。
すると、不思議なもので、目をつぶってなにも見えない分、いろんな音が聞こえてきます。
外の風の音がよく聞こえます。エアコンの音もいつもより大きく感じます。時計の針が動く音もうるさいくらいです。
しかし、それ以上に何かわからない音が聞こえます。
窓に何か小さいものが当たったような音、外をミシッという足音のような、家がきしむような音、裏山でなにか動物がいるようないないような音・・・
何の音かわからない音は、怖いと感じました。
寝なければいけないと思いながら、不意に目を開けてしまいました。
見えないことは恐怖であると感じたのであります。
もし、自分が鎌田さんの猫と同じように、目が見えなかったらどうかと考えてみます。
よその猫がやって来たとき、警戒心を持たずに、すりすりとすり寄って、肌を合わせて寝ることができるでしょうか。
いや、見えないものを怖いと感じる私は、より一層他の猫に対して警戒心を強く持つのではないかと思うのです。
つまり、ココが警戒したり威嚇したり、ケンカしたりしなかったのは、目が見えるか見えないかにかかわらず、相手を思う優しい心にあったのではないかと思ったのであります。
お釈迦様は
「俯して視、とめどなくうつろうことなく、諸々の感官を防いで守り、こころを護り慎しみ、煩悩の流れ出ることなく、煩悩の火に焼かれることもなく、犀の角のようにただ独り歩め。」
と説いています。
私たちは、眼、耳、鼻、舌、身、意という感覚器官から取り入れた情報をうまく処理することができません。
自分勝手なものの見方をするので、思い通りにならなかったときに悩み苦しむのです。
だから、これらを正しく整えなさいと、お釈迦様は常々言っておられたのであります。
きっとココは、猫でありながら、このような感官をきちんと整えていたのではないでしょうか。
だから、もし目が見えていたとしても、警戒したり、威嚇したり、ケンカしたりすることはないだろうと思うのであります。
こうした心優しい猫、ココの話に、熱く胸を打たれました。
こんな優しい心がきっと、すべての人を幸せにすることができるのでありましょう。