風吹けば風吹くままに

風吹けば風吹くままに

おみくじをひくことは、新年のひとつの楽しみでもあります。

楽しみと言ってしまうと失礼なのかもしれませんが、それでもその年の運勢を占うものとして、毎年欠かせない恒例行事でもありましょう。

私も初詣はいつも同じところへお参りをし、毎年そこでおみくじを引きます。

引いたおみくじは、大吉であろうが小吉であろうが、何が出ても神社の木に結んで帰ります。

私は、自分でおみくじを持っていると、いつもそこに執着してしまいそうな気がするのであります。

いいことがあれば「大吉だから」とか、悪いことがあれば「大吉なのに」とか、「おみくじに書いてあるからやめておこう」とか、生活のすべてがおみくじ中心に回ってしまいそうな気がするのです。

そうではなく、うれしいことはうれしい、悲しいことは悲しいと、一日一日のできごとや感情を大切にしていきたいのであります。

そのためにもおみくじは、失礼ながら毎年恒例の運試しというお楽しみとして見ているのであります。

さて、今年の運勢はといいますと、うれしいことに「大吉」でありました。

この一年を、幸先のいい出発ができたように思います。

しかし、大吉といえど、何から何までいいことが書いてあるわけではありません。

私のおみくじにはこのように書いてありました。

「何事も繁盛して心のままになるけれど心に油断があってはならない。只今より来年のことをよくよく考えてやりそこなわぬよう様十分の注意をしておきなさい」

これでは運勢がいいのか悪いのか、大吉とはなんとも不思議なものであります。

おみくじには、運勢と一緒に和歌が書かれています。

私のおみくじにはこのような歌が詠まれていました。

風吹けば

風吹くままに

港よしと

百船千船

うちつどいつつ

この和歌はおみくじのために詠まれたものだそうで、くわしい詠み人はわかっていないようであります。

そのため、くわしくその意味を解説したものはありませんが、おおかたこのような意味になるようです。

風が吹けばその風に流されて、百や千の船がつぎつぎと港へと寄せ集まってきます。

そのように、流れに身をまかせておけば、いいことがたくさんやってくるということです。

なるほど、なんとも大吉らしい歌であります。

風の流れに身をまかせれば、いいことが次から次へとやってくる。これは大変うれしいことです。

しかし、曲がった性格の私は、これを深読みしてしまいます。

集まってきた船に乗っている人は、みんないい人だろうか。

百も千も集まってきた船の中で、私の大切なものを奪っていこうとする悪い船はいないのだろうか。

和歌を詠む限り、どうやらそこまではわからないようであります。

なにが善でなにが悪かという判断は、大変難しいものではありますが、お釈迦様は悪をやめて善を行うことをしきりに教えておられます。

あるお釈迦様の弟子が、ベッドや椅子などの生活用品を、建物の外に持ち出してそこでも使い、そしてそのまま放置をしました。

するとそれらの道具は雨風にさらされて、またシロアリなどにも食べられて朽ち果ててしまいました。

ところが「これを片付けるべきだ」と他の弟子たちに言われても、「私がしたことはほんの些細なことだ」と言って、いっこうに片付けようとしません。

それどころか、次から次へと道具を外で使っては放置していくのです。

困った弟子たちは、このことをお釈迦様に話して相談をいたします。

そのことを聞いたお釈迦様は、次のように言ったというのであります。

「その報いはわたしには来ないだろう」と思って、悪を軽んずるな。

水が一滴ずつ滴りおちるならば、水瓶でもみたされるのである。

愚かな者は水を少しでも集めるように悪を積むなら、やがてわざわいにみたされる。

法句121

悪い心は次から次へと生まれてくるのが、人間であります。

「ほんの些細なこと」「ちょっとくらいいいだろう」という気持ちでも、放っておけばいずれは大きな悪を犯してしまうことをとがめたのであります。

自分で作った罪の報いは、いずれは自分に返ってきます。

それはまるで、一滴ずつでも水瓶に水がたまるように、悪業が少しずつ積み上げられ、いずれは自分が苦しむことになるのであります。

和歌に詠まれる、百船千船も同じだと思うのです。

悪いことをしていれば、よってくる船もまた悪い船であり、いいことをしていれば、よってくる船もまたいい船なのでありましょう。

風吹けば風吹くままに、心を落ち着かせて、いいことを行い、よい一年にしていきたいものであります。

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