春の種を下さずんば秋の実いかんが獲ん
ようやく秋らしくなり、過ごしやすい気候になりました。
お寺の境内ではキンモクセイの花が咲き、心を和ますようないい香りが漂っています。
いただいた新米は、炊けば白くかがやき、口の中にはお米の甘さが広がって、秋の味わいを感じさせます。
反対に、桜の葉は風にあおられて散っていきます。
毎日そうじをしながら、季節の移ろいと世の無常をあじわっています。
先日、真言宗を開いた弘法大師空海のことばと出会いました。
「春の種を下さずんば、秋の実いかんが獲ん」
春に種をまかないのに、どうして秋に実を獲ることができるのでしょうか。
いいかえれば、春に種をまいているからこそ、秋の実りに出会うことができるのです。
そのように、何かを求めているならば、まずは行動して始めなければいけません。
何もしないのに、結果をえることなどできないのです。
当然、極楽浄土に生まれたいと思うならば、極楽浄土に生まれたいという願いをおこさなければいけません。
これを「菩提心」といいます。
菩提とは悟りのことをいいます。
一般的に菩提心とは、悟りを得て仏になりたいという心のことをいいます。
しかし西山上人は、自らの力で仏になることができない私たち凡夫は、阿弥陀仏の救いに任せるより他はないといいます。
また、極楽浄土に生まれるのも、自分の力ではなく、阿弥陀仏の力に依らなければ叶わないのです。
そこで西山上人は、「自分の力で極楽浄土に往生することはできない私たちは、阿弥陀仏におまかせするしかない」という真実をよく理解することが、菩提心であるというのです。
私はかつて、がんばれば自分の力だけでもどうにかなると思っていたときがありました。
自分がいいと思ったことはとにかく始め、自分ができると思ったことは仕事量が多くても全部自分でやり、他人に頼むよりも自分でやったほうが早いと思い、自分でやる方が自分で満足する結果がでていると思っていました。
今思えば、きっと自分に対するうぬぼれがあったのでしょう。
ところがある時、仕事を任されたときに、どうしても自分の力だけではどうにもならなくなったことがありました。
追い詰められた私は、恥をしのんでまわりの人たちに頭を下げてまわりました。
今まで自分の思うようにしてきたという負い目もあって、厳しい言葉がかえってくると覚悟をしていたのですが、意外なことに誰も文句を言わずに引き受けてくれたのです。
これではきっとみんなに迷惑をかけて、とても忙しい思いをして、大変な中で仕事をしてくれているのだろうと思いました。
改めて落ち着いてまわりの様子を見てみると、どうってことはない。いつもと変わらない景色が広がっていました。
そこで初めて気がつきました。
今まで自分の力でがんばってきたと思っていたけど、実はこれまでもみんなに助けられてきたんだ。
どうにもならなくなったと感じたときに、ようやくそのことに気がついたのです。
自分の思い通りに生きているうちは何も思わないかもしれませんが、年をとったり、病気になったり、死に直面したときに、初めて自分の力ではどうしようもないことに気がつきます。
自分の力ではどうしようもなくなったとき、誰かに頼るしか方法はないのです。
仏さまにすがるしかないのです。
ここに初めて真実の菩提の心が生まれてくるのです。
自分に対するうぬぼれを捨てたとき、本当の幸せが見えてくるのかもしれません。