心は移動する

心は移動する

横断歩道を渡ろうと信号待ちをしていると、幼稚園くらいの年齢の女の子がやって来ました。

そのあとを追うように、男の人がやって来ました。ふたりはどうやら親子のようです。

横断歩道の手前で立ち止まると、反対側にいる人に向かって手を振っています。

見てみると、小さな子どもを抱えた女の人が立っていて、こちらに向かって手を振っていました。

きっとこの子のお母さんなのでありましょう。

信号が青になりました。

女の子は信号が青になったことを確認し、さらに「右、左、右」と声に出して車が来ていないことを確かめると、パタパタっとお母さんの方へ向かって走って行きました。

そのあとをお父さんが、ゆっくりと歩いて続きます。

真ん中まで来たところで、女の子は足を止めました。そして、後ろを振り返ると、「パパ!」と呼びました。

お父さんは「はーい」と返事をしましたが、だからといって急ぐ様子はありません。

女の子の表情には、少し不安げな様子が見て取れます。

「大丈夫だから、先にママの所に行きな」

と声をかけて、先に横断歩道を渡るように促します。

すると、向こうからお母さんの声が聞こえてきました。

「大丈夫だから、止まってないでこっちにおいで!」

その聞いて女の子は、再びパタパタとお母さんの元へ走って行きました。

「上手に渡れたね」

と、お母さんが子どもの頭をなでながら、「えらいえらい」と褒めています。

あとから到着したお父さんも、とても喜んでいるようでした。

車の通りの少ない、信号のある横断歩道です。

きっとご両親は、子どもにひとりで横断歩道を渡ることを挑戦させたのでありましょう。

なんとも微笑ましい光景でありました。

そして、その様子を見ていて私は、心は移動するものだという風に感じました。

挑戦させているとはいえ、横断歩道を一人で渡る子どもは心配で仕方がありません。

「大丈夫だから、向こうへ行きな」「大丈夫だからこっちにおいで」

と声をかけているときは、お父さんもお母さんも心は子どもにだけ向いています。

「心ここにあらず」といった様子で、その瞬間の親の心は子どもにあるのです。

善導大師の『観経疏』のなかに、「二河白道」のたとえがあります。

ある人が旅をしていると、忽然と目の前に川があらわれました。

その川は、真ん中の道を挟んで右側と左側でその様子が違います。

右側は荒れ狂う波、左側は燃えさかる炎の川であります。

ふたつの川に挟まれるようにして真ん中にある道は、幅が約10センチから15センチ程度の白く細い道で、簡単に渡れるような道には見えません。

そこで引き返そうとすると、今度は後ろから山賊が襲いかかってきます。

さらには蛇や虎などの獣までやって来て、逃げ場がありません。

ふたつの川にはさまれた、その白く細い道を行く以外に進む道はないのであります。

どうすればいいのか困っていると、後ろから声が聞こえてきました。

「大丈夫、心配ないからその道を進みなさい」

また、川の向こう岸からも声が聞こえます。

「大丈夫、心配せずにその道を進みなさい」

このふたりの声に励まされ、旅人は無事に川を渡りきり、その難を逃れたというのであります。

この旅人とは、自分自身のことをいいます。

後ろから聞こえる声はお釈迦様であり。向こう岸から聞こえる声は阿弥陀様です。

襲い来る山賊や獣は煩悩のことであります。

煩悩に悩まされ、苦しみの中にいる私たち人間も、お釈迦さまの教えに従い、念仏によって阿弥陀さまの極楽浄土に生まれて救われることができるのであります。

このように、仏さまが私たちを思う心のことを、慈悲といいます。

仏さまが私を思ってくれているとき、仏さまの慈悲の心は私の心の中にあるのです。

『観無量寿経』の中に「諸仏如来はこれ法界の身なり、一切衆生の心想の中に入りたもう」とあるのが、まさにこのことではないでしょうか。

私はそれまで、仏さまの心が人々の心の中に入っているといわれても、その感覚がいまいち分かりませんでした。

それはきっと、親が子どもを思うとき、自分の心を忘れてただひたすらに子どものことを心配している様子と同じなのでありましょう。

われを忘れて子どもを思うとき、その心は子どもの中にあるのです。

そのようにして私たちも仏さまから思われているのだと思うと、ふつふつと喜びがわき上がってくるのであります。

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