蜂のようなやさしい心
気温が高くなり、暖かくなるにつれて、季節の移ろいをより一層感じるようになりました。
草木は緑に覆われ、赤や黄色の花が咲きだします。
蜂や蝶など、虫や多くの生き物が活動を始め、その様子をあちこちで見せてくれます。
目に見えて、それらの変化を見ることができるのは、とても心地がよいものであります。
庭に咲いた名前も知らない花に、一匹の蜂が飛んできます。
ほんの少しの間そこにとどまると、すぐにどこかへと飛んでいきました。
虫が苦手な私は、いつもなら慌ててその場を離れて逃げるところを、そのときは不思議と、蜂の行動を観察していたのでありました。
金子みすゞさんの詩に、「露」という詩があります。
「露」
誰にもいわずにおきましょう。
朝のお庭のすみっこで、
花がほろりと泣いたこと。
もしも噂がひろがって、
蜂のお耳にはいったら、
わるいことでもしたように、
蜜をかえしに行くでしょう。
金子みすゞ名詩集
私たちの心を癒やしてくれる花ですが、きれいにその花を咲かせながらも、見えないところで泣いているのかもしれません。
そして、このことを蜂が知ったら、蜂は蜜を返しに行くだろうと、金子みすゞさんは感じたのです。
この詩を読みながら、では自分はどうだろうと考えてしまいます。
自分なら、花が泣いたことを知って、とった蜜を返しに行くだろうか。
いや、きっと返すどころか、見て見ぬふりをするだろうと思うのです。
誰にも心配をかけずに泣く花と、それを知って蜜を返す蜂を描く、彼女のこの詩の中には、思いやりや優しさがあふれ出ているように感じるのであります。
お釈迦様は、たくさんの教えを残されていますが、その中で花にちなんだ言葉も残されています。
「蜜蜂は花の色香を害わずに、汁をとって、花から飛び去る。聖者が、村に行くときは、そのようにせよ。」
確かにそのとおりだと思いました。
蜂は花の色も香りも、一切損なうことなく蜜を取って飛び立ちます。
きっと、自分に必要な分の最低限の蜜だけをとっているのでありましょう。
そのことを思うと相手を思いやる蜂の優しさを感じ取ることができます。
そのように、修行僧にも信者の生活を脅かすことのないように行動することを求めました。
托鉢のために村に行ったときには、家の順に食を受け取り、決して他者を損なうことなく、また捉われることなく進みなさいと教えたのであります。
お釈迦様はこの教えを説いたとき、弟子たちに向かって、
「在家者を導こうとする者は信仰を損ねることなく、富を損ねることもなく、疲れさせず、悩まさず、ちょうど蜂が花の蜜を集めるように近づき、仏の徳を知らせるべきである」
と示されたといいます。
出家者にとって托鉢は、生きていくために必要なことであります。
しかし、食べ物を得ることにこだわり、欲をもってしまうと、在家信者の信仰を損ねたり富をうばったりと、つまりは迷惑をかけて傷つけてしまうことになります。
蜂が花の蜜を集めるように、相手の信仰や富を奪わないように気をつけながら、托鉢をしなさいと教えたのであります。
托鉢をしない私たちも、生きていくためには食べていかなければいけません。
自分が食べるために貪って、他者の物まで奪ってはいけないし、信頼をなくしてしまうような行為をしてはいけないということです。
みんな自分が生きていくために必死です。
自分も生きるのに必死なのです。
しかし、それが他者を損なう理由にはならないのであります。
自分が生きるために必要なことであっても、他者を気遣い思いやる心を忘れてはいけないのであります。